史蹟 山田奉行所跡から山田奉行所記念館へ

2015年02月21日(土) 史蹟 山田奉行所跡から山田奉行所記念館へ (徒歩)

二木神社(伊勢市御薗町小林)を後にするとすぐ近くにある史蹟 山田奉行所跡を経由して山田奉行所記念館へ向かった。

史蹟 山田奉行所跡(伊勢市御薗町小林)

史蹟 山田奉行所跡(伊勢市御薗町小林)

 

「山田奉行所記念館」へは矢印に従って、この路地を進めばいい。

史蹟 山田奉行所跡、「山田奉行所記念館」の案内板(伊勢市御薗町小林)

史蹟 山田奉行所跡、「山田奉行所記念館」の案内板(伊勢市御薗町小林)

 

この十字路の角、には「史蹟 山田奉行所跡」の石碑が建ち、その背面には

史蹟 山田奉行所跡(伊勢市御薗町小林)

史蹟 山田奉行所跡(伊勢市御薗町小林)

 

説明板がある。

「山田奉行 史跡地」説明板(伊勢市御薗町小林)

「山田奉行 史跡地」説明板(伊勢市御薗町小林)

山田奉行 史跡地
徳川幕府は、直轄地の支配のために、全国の要衝地に十一の遠国奉行を置いた、当山田奉行は、その内の一つである。創地は早く、佐渡・長崎奉行と同時期で、慶長八年(1603)十一月であった。初代長野内蔵允友長は、近江山中に在って、下代留守居役を派遣し、有滝村に陣屋役邸を設け、施政を布いた。
寛永十二年(1635)に七代花房志摩守奉行が有滝から当地へ奉行役邸を移築整備した。爾来、幕末慶応四年(1868)七月の廃絶まで、歴代四十二員の幕臣旗本が江戸表より着任した。幕閣老中の支配下に属し、神宮警衛造営に関与し、宇治・山田両郷の庶政監督、公事訴訟、伊勢湾海防等の役務に就任した。奉行・支配組頭・与力・同心・主水等の役人衆90〜70員が、立ち働き、人々の出入り激しく政経文化の交流地として賑わった。役屋敷惣廊は、13,970坪土塀環濠をめぐらし、役邸敷地約二千坪内に十数棟の建物が立ち並んでいた。
それらは、明治二年(1869)に解体され、同六年に始まった地租改正に伴う官有地払下げで奉行所敷地は民有地になり今日に至った。
伊勢市教育委員会

 

石碑を左手に見ながら進むと路傍の花が迎えてくれた。パチリ・・・

史蹟 山田奉行所跡から山田奉行所記念館への途中

史蹟 山田奉行所跡から山田奉行所記念館への途中

史蹟 山田奉行所跡から山田奉行所記念館への途中

史蹟 山田奉行所跡から山田奉行所記念館への途中

史蹟 山田奉行所跡から山田奉行所記念館への途中

史蹟 山田奉行所跡から山田奉行所記念館への途中

 

さらに進むと右側に視界が開け、その奥に山田奉行所記念館が望める。

山田奉行所記念館の遠望(史蹟 山田奉行所跡から山田奉行所記念館への途中)

山田奉行所記念館の遠望(史蹟 山田奉行所跡から山田奉行所記念館への途中)

 

次の分岐で右へ向かうのだが、左側の道路は整備されていた。

整備された山田奉行所記念館への道路(史蹟 山田奉行所跡から山田奉行所記念館への途中)

整備された山田奉行所記念館への道路(史蹟 山田奉行所跡から山田奉行所記念館への途中)

 

この分岐の近くに多数の石材が置かれていた。石を切った痕が・・・。

?(史蹟 山田奉行所跡から山田奉行所記念館への途中)

?(史蹟 山田奉行所跡から山田奉行所記念館への途中)

 

案内板の矢印に従って進むと右方向の遠くには

御薗手筒花火製造所の遠望(史蹟 山田奉行所跡から山田奉行所記念館への途中)

御薗手筒花火製造所の遠望(史蹟 山田奉行所跡から山田奉行所記念館への途中)

 

御薗手筒花火製造所が望める。

御薗手筒花火製造所の遠望(史蹟 山田奉行所跡から山田奉行所記念館への途中)

御薗手筒花火製造所の遠望(史蹟 山田奉行所跡から山田奉行所記念館への途中)

御薗手筒花火製造所は伊勢市御薗町の上條地区および小林地区で実施される大念仏行事(手筒花火、かんこ踊り他) 等で使用される花火を製造する場所である。

【参考】

 

 

【 20150221 の記録 】

 

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