漂泊の詩人 伊良子清白を偲んで墓参りほか

2016年01月24日(日) 漂泊の詩人 伊良子清白を偲んで墓参りほか (車、徒歩)

先日、伊勢新聞の記事で「漂泊の詩人 伊良子清白」の没後70年供養が大紀町打見の墓所で執り行われたことを知った。

「漂泊の詩人 伊良子清白の没後70年をしのぶ木斛(もっこく)忌」の記事(伊勢新聞)

「漂泊の詩人 伊良子清白の没後70年をしのぶ木斛(もっこく)忌」の記事(伊勢新聞)

 

私は文学にも疎いのだが、さまざまな巡りの中で伊良子清白にまつわる場所を訪れることがあり、大紀町打見のお墓も気になっていた。

 

【参考 wiki ほか】

 

【参考 私の記事】

 

なお、新聞記事に没後70年とあるように著作権は切れているため、青空文庫にて詩集「孔雀船」を読むことができる。

【参考 青空文庫】

 

 

本日参加した「宮川流域案内人とともに 熊野脇道伊勢路旅 番外・大紀編其ノ一」の集合場所は、まさに伊良子清白のお墓がある大紀町打見の大紀町役場七保支所だった。『これは呼ばれたのだ』私はこの企画に参加する前に伊良子清白のお墓を訪れた。

七保支所の前に広がる駐車場の

大紀町役場七保支所

大紀町役場七保支所

 

片隅に建てられた伊良子清白の詩碑を後にすると

伊良子清白の詩碑(大紀町役場七保支所)

伊良子清白の詩碑(大紀町役場七保支所)

 

 

この案内板に従って進んだ。(この写真は熊野脇道散策に参加した時のもの)

「明治新体詩中の鬼才 伊良子清白の墓」案内板

「明治新体詩中の鬼才 伊良子清白の墓」案内板

 

二つ目の辻を右へ折れると坂道が続き、右手上方には墓地が見える。入口を探しながら進むと少し遠回りになる場所に入口があり右方向へ回りこむように・・・。

漂泊の詩人 伊良子清白の墓がある墓地

漂泊の詩人 伊良子清白の墓がある墓地

 

すると伊良子家の墓石は墓地の外れに一基だけ、独立するようにまつられていた。こちらが最も町を見渡せる場所、好立地なのだろう。

漂泊の詩人 伊良子清白の墓所からの風景

漂泊の詩人 伊良子清白の墓所からの風景

 

墓石の正面へ向かうとまずはお参り。

漂泊の詩人 伊良子清白の墓

漂泊の詩人 伊良子清白の墓

 

墓石を確認すると「伊良子」の文字の左側に卒塔婆が立てられていた。これは伊良子清白の木斛(もっこく)忌のものだろうか?

漂泊の詩人 伊良子清白の墓

漂泊の詩人 伊良子清白の墓

 

この後は熊野脇道散策に参加したので、これ以降は散策時に巡った時のもの。

伊良子清白は鳥取県に生まれたが各地を転々とし1922年に三重県志摩郡鳥羽町小浜(現・鳥羽市小浜町)で町医を開業した。その後1945年には三重県度会郡七保村打見(現・度会郡大紀町打見)に疎開した。そこでは旧七保村診療所にて医師として勤務し、その翌年に往診のために櫃井原を訪れた際、脳溢血のために帰らぬ人となってしまったのだった。

 

散策の途中で見かけた七保診療所。こちらは伊良子清白が医師として勤務した旧七保村診療所?

漂泊の詩人 伊良子清白の墓から七保大橋(宮川)へ

漂泊の詩人 伊良子清白の墓から七保大橋(宮川)へ

 

さらに、武士谷を打見から歩いて

武士谷、夢・花街道の案内板(大紀町打見)

武士谷、夢・花街道の案内板(大紀町打見)

 

峠を越えて下ると

武士谷、夢・花街道の休憩所

武士谷、夢・花街道の休憩所

 

金輪にもこの案内板があるが、

武士谷、夢・花街道の案内板(大紀町金輪)

武士谷、夢・花街道の案内板(大紀町金輪)

 

その手前のこの付近が、伊良子清白が脳溢血で倒れた時に往診に出ていた櫃井原だった。

伊良子清白が倒れた時に訪問診療していた辺り(櫃井原)

伊良子清白が倒れた時に訪問診療していた辺り(櫃井原)

 

『合掌』

 

【 20160124 の記録 】

 

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