2016年03月26日(土) お伊勢さん125社 多岐原神社(モノクローム) (車、徒歩)
最近は、お伊勢さん125社をモノクロで撮影しながらお参りしている。「宮川流域案内人とともに 倭姫命の伝説の山 滝原浅間山登山」に参加する前には瀧原宮(皇大神宮 別宮)にお参りしたので、この登山を終えてからは多岐原神社(皇大神宮 摂社)にお参りした。
国道42号の船木大橋南交差点を折れると道なりに走り、紀勢自動車道の高架をくぐるとすでに大紀町三瀬川に入っている。
高架の下からしばらく進むと左手にこの道標が立っている。この道標から多岐原神社方向へと坂道を下るとチョットした駐車スペースがあるのだが、地元の方々の邪魔になるといけないので、道路幅が十分にある道標沿いの道路に車を駐めるとこの坂道を歩いて下った。
いつもこの雰囲気も楽しみに、この場所を訪れている。
坂道の途中で、さらに右側にも坂道がありこの道が多岐原神社への参道である。以前は砂利道だったがいつの間にか舗装されていた。
【参考】
- 一年ぶりに訪れた多岐原神社(皇大神宮摂社)と三瀬の渡し跡(宮川) 2015年11月15日
その分岐には次の道標が立っている。
参道を下ると道なりに右へカーブし
左手には多岐原神社の殿舎を垣間見ることができる。
参道を道なりに進むと多岐原神社の正面へたどり着く。
瀧原宮と同様、こちらにもアニメのイラストパネルが設置されている。
倭姫伝説(多岐原神社の起源)
1(左上)
2千年ほど昔、第11代垂仁天皇の第4皇女・倭姫命が天照大神のつかいの者として、ご鎮座する地を求めて大和から伊勢方面を旅していました。2(左下)
旅の途中、倭姫命が流れの速い宮川を渡れず困っていたところ近くに住んでいた真奈胡神がお出迎えをして、川を渡してあげました。
倭姫命はそのお礼に真奈胡神をあがめる御瀬社を贈りました。それが今の三瀬川にある皇大神宮摂社・多岐原神社です。3(右上)
倭姫命は真奈胡神の案内で三瀬坂峠を越えて祝詞山の頂上に立ちました。この美しい土地の名前は何ですか?ここは大河の瀧原の国でございます。4(右下)
倭姫命はこの美しい土地を天照大神の鎮座する地に選びました。
これが瀧原宮の起源です。
正面の右側には社号標と「定」の立札があり、
左側には紀州藩が建立したとされる「禁殺生」石がある。
【参考】
そして、お参り。
夕刻となっていたため、西日が差し込んできた。
「禁殺生」石の近くに立てられた社名板をよく見ると・・・
こんな所が時間の経過を物語っていた。
多岐原神社を後にすると宮川へと続く小道を進んだ。この小道では土ではなく、砂を踏む場所が多い。宮川の増水で運ばれてくるのだろうか?
小道を下るとその先には三瀬の渡し(跡)がある。
三瀬の渡しは地元の方々の努力で復興されているので跡ではないので(跡)と記しておいた。常時乗船することはできないが、機会を得れば船でこの私を渡ることができる。三瀬の渡しが無ければ、熊野古道伊勢路は船木橋からの迂回路となりかなりの距離を余分に歩かなくてはならない。
こちらは三瀬の渡しの下流側で、対岸には小さな滝を望める。雰囲気のある場所だ。
そしてこちらが三瀬の渡し。
【参考】
三瀬の渡しを後にして、多岐原神社前戻るとその近くには「司」と刻された石柱を見ることができる。他のお伊勢さん125社では「神宮」と刻された石柱を見ることがあるが、これは神宮司廳の「司」だろうか?
再び、熊野古道伊勢路を歩きたくなった。
【参考】
【 20160326 の記録 】
- お伊勢さん125社 瀧原宮・瀧原竝宮、瀧原宮所管社(モノクローム)
- 祝詞山に誘われて、宮川流域案内人とともに 倭姫命の伝説の山 滝原浅間山登山
- 三重交通、南紀特急 EXPRESSのバス停も一新
- 毛作川の流れが清らかな岩瀧神社(度会郡大紀町滝原)
- お伊勢さん125社 多岐原神社(モノクローム)