2016年06月19日(日) ブラッチェiseミニツアー パイロット版(宮川堤〜筋向橋) (車、徒歩)
ブラタモリ伊勢編で案内人として活躍された千枝大志さん(中京大学 学芸員)が、同じくブラタモリ京都編で活躍された京都高低差崖会の崖長こと梅林秀行さんに対抗心を燃やしているのか、それとも伊勢の歴史的な重要性や魅力を十分に引き出しているツアーが存在しないこと、その他・・・多数の思いが積み重なったのだろう。ブラッチェiseなるツアーを計画しているそうだ。
今回はツアー計画を煮詰めるためのパイロット版でミニツアーとなった。ちなみに先ほど紹介した崖長こと梅林秀行さんは「まいまい京都」なる京都ミニツアーサイトにて多数のツアーを実施している。
【参考】
梅林さんのことを紹介してしまうと千枝さんに火を点けることになるだろうか。もっともっと萌えて、いや燃えてほしいものだ!
集合場所となっていた河崎蔵へ早めに到着するとコーヒーを飲みながら出発の時を待っていた。
するとここでも予想しない出会いがあった。ネットで知り合った飯南高校の先生が千枝さんの後輩で、たまたまこのツアーに参加していた。会えるとは思っていなかった方と会えることが昨夜から連続の出来事となった。やはり千枝マジックだ。すでにツアーが出発する前に満足してしまった。
当初は河崎周辺を巡る予定だったが、計画は変更となり宮川橋から筋向橋を目指すことになった。河崎からは距離もあるし、天候も不順だったため今回はツアー拠点を車で移動することになった。
主ルートはこちらで、車移動のところだけ(車)と表記した。
河崎蔵 →(車)→ 宮川堤(度会橋東詰駐車場) → 柳の渡しで伊勢へ入る木戸門付近 → 宮川堤 →(車)→ 上社 → 久留山威勝寺跡、久留山荘 → (車) → かさもりいなり法住院 → 山名橋 → 筋向橋 → かさもりいなり法住院 →(車)→ 河崎蔵
集合時刻の11時を少し回り全員が揃ったところで出発となった。参加者は8名で千枝さんを含め全員で9名。説明する側も話を聞く側も程よい人数だ。私は伊勢河崎商人館の駐車場(歩いて5分以上)に駐めていたので出遅れた。
【宮川堤】
宮川堤へは適度な時間で到着した。参加者が簡単に自己紹介するとツアーが開始された。
ブラタモリで紹介された対岸の下流側にある桜の渡しや尾崎咢堂記念館付近にあった柳の渡しについての説明で、桜や柳の名は明治からの名前で華やかな伊勢を演出したもの・・・
千枝さんは自前の山田の古地図を広げると史料に基づいた説明が続いた。聞いている分には理解できたつもりでいたのだが、文章にしようとすると言葉にできない。説明の内容が濃いので何度も参加しないと・・・
駐車場にて説明を終えると上流側へ移動したがこの横断歩道の先が工事中で堤防道路を歩けなかった。しかたなく左側の坂道を下って迂回した。
【柳の渡しで伊勢へ入る木戸門付近?】
そしてたどり着いた先がこちら。「えっ? ここはどこ・・」状態になってしまう場所だが古地図から推定するとここは柳の渡しからのルートで、奥に見えるのはお木曳きの際に御用材を載せた木ゾリが水切りのために前後に揺すられるどんでん場だ。下の写真に写る電柱付近だろうか、舗装してもいつも凹んでしまう場所があるそうだ。おそらくその辺りが木戸門の柱跡?
うまくできたような話だがこの古地図に記された柱跡、さらには伊勢参詣曼荼羅に記されている木戸の図等を合わせて考えると符合する。これは現段階では解のない想像でしか無いかもしれないが、その他の史料が見つかればその信憑性は増すことになる。(現場+史料+考える力=新しい世界)の積み重ね
このように古地図や古文書を根拠として説明されるとどうしても写真と比較して考えてしまう。写真はフレーミング次第で撮影者の都合により自由に切り取れる、また被写体をいかに撮影するのかも撮影者の意図による。前から撮すのか、後ろ、左右、上下・・・このように写真も撮影者の好き勝手だ。真実を事実として切り取ると一部の事実だけでは真実は見えなくなる。それは史料も同じ、複数の史料(事実)を突き合わせることで真実に迫ることができる。面白い!
【上社】
宮川堤(度会橋東詰)を後にすると上社に新しく作られた駐車場まで車で移動した。
雨が激しくなると傘に当たる雨音で千枝さんの声が聞こえなくなるほどに、この雨では古文書等は開けない。
上社を産土社とするこの地域に関する古文書は多数残されていて、白米家の3000件ほどの文書によると1530年頃から明治までの約300年間の氏子の流れを把握することができるそうだ。こんな地域は他にはないだろう、こんな理由から上社(昔は牛頭社「ごうずさん?」)は非常に重要な神社であると。
最近、毎週のように訪れているのに全く知らなかった。ブラッチェise、最高! ただし、たとえ千枝さんの話でも鵜呑みにしてはいけない。自分なりに把握し直す必要はあるのだと自分に言いきかせた。
牛頭夫婦楠の前を通り抜けると続いては建て替え中の社務所の裏へ向かった。
そこにあるのは伊勢音頭資料館の看板が掛かる建物。さらにその先へ進むと
【久留山威勝寺跡、久留山荘】
こちらは何度のこの前で説明板を眺めただけで終わっていた久留山威勝寺跡(久留山荘)。私は個人宅だと思っていたので今まで門の中へ入ることはできなかった。
千枝さんは心得ていたのだろう、迷うこと無く門をくぐった。
威勝寺に関連して上三郷(辻久留、二俣、浦口)と中島の関係を語っていたが、うまく理解しきれていない。威勝寺は上三郷の寺で中島は含まれていなかった、しかし上三郷と中島はまとまって行動することも・・・だったか、あやふやだ???
最後に庭園内にまつられている弁財天にお参りさせていただいた。
【かさもりいなり法住院】
上社、久留山威勝寺を後にするとかさもりいなり法住院まで車で移動した。
千枝さんは何度か訪れたことがあるそうで突然の訪問にもかかわらず本堂を見学させていただけることになった。
本堂へ向かい
この中へ入ると
さらに奥の間、厨子の前へと通された。そして、目にすることができたのは鋳造の鐘(?)「孔雀文磬」。これは伊勢市の重要文化財で貴重なものだった。本物は現在でも法要等で鳴らされているそうだ。
こちらの写真は手持ちの本「伊勢市の文化財(伊勢市教育委員会)」から引用した。千枝さんも目にするには二回目だという貴重な体験となった。
また、ここでは山田羽書の発行にも影響力があった浦口のお金持ち、古森善右衛門を知った。知らないことが多すぎる。だから、一度のツアーでは消化しきれない。復習しないと・・・
本堂を後にして境内の入口付近へ移動するとこちらの石塔に注目。
ここに、石工 河崎 和泉屋九兵衛と刻されていた。こちらは酒市場リックス(株式会社石九)の祖先だとか。
法住院を後にすると歩いて駐車場方向へ向かった。
【山名橋】
その先にあったのはこちらの親柱。こらは私が疑問に思っていたものだった。
そこに刻されていた名は「山名橋」だった。ツアー資料として渡された古文書には「山名町」と記されていた。今は浦口となっているので、この名(町名)を知る人はいないだろう。古文書が疑問を解決してくれた。
なお、この親柱の奥に流れているのが清川で公界(くがい)堀だった。つまりあの世とこの世の境界、結界だ。続いてはこの清川が流れている筋向橋へ向かった。
【筋向橋】
雨が降りしきるなか説明が続けられた。ここではブラタモリの話題が・・・
筋向橋を後にすると、ブラタモリでゴミ袋を手にしたおばちゃんが登場した場所を確認するとかさもりいなり法住院へ戻り解散となった。
11時20分頃から昼食もとらずに約3時間、説明している千枝さんは大変だっただろう。それにしても濃い内容だった。千枝さんの説明の10分の1も紹介できていない。復習のためには、同じルートでのツアーが必要だ。
ああ、お腹いっぱい!
でも、また巡りたい。同じ場所を繰り返しても発見の連続だ。
始めて知ることばかりですね。
歩きながら三時間も説明!!
千枝さん、大変!!!
たかっち
たかっちさん、
実は今日もブラッチェiseミニツアーの続編が河崎で実施されました。天候不順だったせいでしょうか、参加者は私ひとり。そのため千枝さんを独占してしまいました。今回もまた発見の連続、楽しいツアーでした。後日報告します。