2016年11月20日(日) 企画展「四郷の文化(伝承・物語・伝統)-籾種石の伝承、長者姫物語ほか」(四郷地区コミュニティセンター) (車、徒歩)
神宮神田の隣に位置する四郷地区コミュニティセンター(伊勢市楠部町)では、定期的に興味深い企画展が開催される。
【参考】
- 企画展 四郷の氏神さまとご神遷 2011年04月24日
- 企画展「月讀宮・倭姫宮のお白石持」(四郷地区コミュニティセンター) 2014年06月29日
- 企画展 朝熊山金剛證寺と岳まいり(四郷地区コミュニティセンター) 2015年01月18日
- 企画展『美し国・伊勢志摩の海の幸を天照大神に奉納する「贄海(にえうみ)神事」と四郷』(四郷地区コミュニティセンター) 2015年06月28日
今回は四郷の文化(伝承・物語・伝統)と題して籾種石に関する展示があると聞いたので訪れた。この日のために前日には内宮を訪れて籾種石を撮影しておいたのだった。
2016年11月19日 撮影
私が知っている写真の籾種石は、天明年間の式年遷宮の際に楠部郷の人々が五十鈴川の上流から献納した大石で、運びこむのに長い時間を要したため食料が欠乏し、翌年の田植えのための籾種まで食べ尽くしてしまったとの秘話からこの名が付いた。と・・・
この展示を拝見すると籾種石なるものはに二種類あるとされ、私が知る石には古文書によりその根拠が示されていた。また、今回は籾種石の伝承に加え、地元に伝わる長者姫物語および河崎音頭について紹介されていた。
四郷地区コミュニティセンターの入口へ向うと
その脇には、こちらの看板が立っていた。
展示室へ向うといつもの企画展示コーナーがこちらのガラスケース3個所で、左から順に「籾種石の伝承」「長者姫物語」「河崎音頭について」が紹介されていた。
もっとも興味がある「籾種石の伝承」を見学すると
史実と伝承に添えて
皇大神宮(内宮)の殿舎配置図に赤色と青色の各矢印と丸が示されていた。赤がその1、青がその2でここからもわかるように、籾種石は二ヶ所にあることが紹介されていた。私が知っている方は青(その2)のものだった。
さらに、各籾種石については写真と解説があった。
その1 西御敷地板垣西御門の北側の大石
江戸四大飢饉の一つ天明二年(1782)から7年までつづいた大飢饉が終息した直後、年号が変った寛政元年(1789)に執り行われた第51回式年遷宮のときに、多くの苦難を乗り越え、内宮の宮域まで造営のため大石が曳かれました(この大石を曳いたのは、楠部の村人だとする説(神都名勝誌 1895年 東吉貞)がありますが、それを直接裏付ける資料が見つかっていません)。
その2 表参道横の板垣西南の角の大石
明和六年(1769)の第50回式年遷宮に際して、宇治会合所(自治組織)から上二郷(現 今在家町、中之切町)による石曳が行われるので、四郷も準備をするようにとの文書、上二郷が曳いた石の石積に関する楠部の村人の請負文書、石垣の仕様を示す絵図、石曳きに関する日記などの文書が一宇田町の会所に残されています。なお、明和六年の頃には飢饉はありませんでした。
その1については、「それを直接裏付ける資料が見つかっていません」なので特に資料はなかったが、その2については一宇田町が有する古文書が紹介されていた。古文書の存在を確認できただけでも籾種石の存在と過去との繋がりにリアリティが感じられ、楠部郷の村人が苦労しながら運んでいた様子を想像することができる。
今は目にすることしかできないが、くずし字が読めるようになればこれらを手に取って読んでみたい。特に「宮中御石垣石曳日記」や「石曳之書留メ」では大石を運ぶ村人の営みを身近に感じることができるだろう。
籾種石のほかの展示では、長者の家に生まれながらも不遇な身分となったその姫が朝熊の人々に面倒を見てもらい、その恩返しに村人を困らせていた男を殺害する。その姫の死後に伝染病が流行したため「祟り」だと恐れた村人は姫の霊を祀り続けている・・・なる物語が紹介されていた。(ここではかなり簡略化して紹介しているので、現地で詳細をご覧頂きたい。)
この物語に関連する場所を示す地図も展示されているので、ここで示された場所を訪れるのも面白そうだ。
そして、最後は河崎音頭について。