「浅沓師 4代目 久田遼三の浅沓展示@伊勢古市参宮街道資料館」パンフレット

以前にも紹介したように伊勢古市参宮街道資料館の「平成29年度後期特別企画展 伊勢の伝統工芸」では「浅沓師 4代目 久田遼三の浅沓展示」が紹介された。

【参考】

 

この企画展はすでに終了してしまったが、手元にあるパンフレットを眺めると久田遼三さんを思い出す。

今回、縁あってこのパンフレットに寄稿させていただく機会を得たのでなおさらである。

「浅沓師 4代目 久田遼三の浅沓展示@伊勢古市参宮街道資料館」パンフレット

「浅沓師 4代目 久田遼三の浅沓展示@伊勢古市参宮街道資料館」パンフレット

 

「浅沓師 4代目 久田遼三の浅沓展示@伊勢古市参宮街道資料館」パンフレット

「浅沓師 4代目 久田遼三の浅沓展示@伊勢古市参宮街道資料館」パンフレット

 

「浅沓師 4代目 久田遼三の浅沓展示@伊勢古市参宮街道資料館」パンフレット

「浅沓師 4代目 久田遼三の浅沓展示@伊勢古市参宮街道資料館」パンフレット

 

「浅沓師 4代目 久田遼三の浅沓展示@伊勢古市参宮街道資料館」パンフレット

「浅沓師 4代目 久田遼三の浅沓展示@伊勢古市参宮街道資料館」パンフレット

 

あれは4年ほど前のこと、自家で久田遼三さんの写真と新聞記事を見つけネットで「久田遼三さん」の名を探した。しかし、その名は見つからず。それならば私がネット上に「久田遼三さん」の名を残そうと記事を投稿してからさまざまな出会いがあり、この拙文につながった。

【参考】

 

この御縁に感謝し、久田遼三さんと浅沓への思い込めた拙文を恥ずかしながらもここに留めておこう。

久田遼三さんと浅沓

ここは古市街道、路線バスが通れば対向できないほどの狭い道が続き、街道に接するほどに並び建つ妻入りの建物に足を踏み入れる。すると一種独特な世界へと惹き込まれた。
こんな記憶を思い出させてくれたのは2014年、実家で開かれた新年会でのことだった。私は過去や歴史には関心を示さずに過ごしていたが、2010年の初詣で外宮をお参りした際、とても単純な理由から突然「お伊勢さん125社まいり」に目覚めてしまった。もっぱら頭よりも身体が動いてしまうタイプであるため体感が重要だとまずは知識も蓄えずに摂社・末社・所管社を巡りに巡った。あれから数年が経過しこの頃には巡りも一段落した。そろそろ知識を蓄えようと思い亡き父が残してくれた本箱の扉を開いては伊勢神宮や周辺地域、お祭りなどの書籍や資料を探した。「平成5年お伊勢さん125社めぐり」の記録など興味深い資料を見つけてはほくそ笑んだのだが、本箱の隅にはさらに興味深いモノが眠っていた。それは久田遼三さんの写真であり朝日新聞の切り抜きだった。これらは亡き父が大切に保管していたものだろう。なぜに今頃になって見つかった(いや、見つけた)のか?そんな疑問よりもこれらを納めた紙箱の蓋を開けたその時の衝撃の方が大きかった。写真には左手で浅沓を掲げ持ち右手の木べらで漆を塗る遼三さんの姿があり視線は漆へと注がれていた。また新聞の切り抜きは1983年(昭和58年)10月19日付けの朝日新聞三重版に掲載された「特集この人」の記事だった。ヘッドラインには「10年後の御遷宮まで・・・全国で専業ではただ1人、神職の沓を作る 久田遼三さん」と記されている。こんな遼三さんの写真を眺めながら記事の切り抜きを読み進めると当時の遼三さんの記憶とともに作業場を兼ねたお宅の様子が私の脳裏から五感に思い出された。
私は幼少の頃、父に連れられて何度か遼三さんのお宅を訪ねた。玄関へ足を踏み入れるといつも独特な雰囲気に違和感を感じたが、それは避けるべきものではなくむしろ心地よいものだった。私にとって重厚な佇まいがとても新鮮で魅力的だったがそれだけではない。もっともその雰囲気に影響を与えていたものは一般家庭では決して感じることができない漆の香りだったに違いない。子供でさえもこちらのお宅を訪ねれば心の落ち着きを感じることができたのだろう。
私たちがお邪魔すると遼三さんは先の写真のように浅沓を手にしていることが多く浅沓とは寡黙に真摯に向き合っておられた。しかしその場を離れ居間にて私たちを迎えてくださる時は柔和な表情となり語り口も穏やかになる。また妻のキヌさんは遼三さんに輪を掛けたほどに柔和な方だったと記憶している。なぜか浅沓についての記憶は薄い。しかし遼三さんがつくる浅沓はキヌさんがつくる甲当て(絹布で綿を包んだ)を添えて完成することだけは知っていた。こんな私は子供心にも「浅沓をつくる作業は面白そうだ!」と感じていた。浅沓づくりの全工程を体感できる絶好の機会であったにもかかわらず人見知りの私はそれを言い出せないでいたのだった。今思えばモッタイない話だ。ただ、私の弟と妹は学校帰り久田家に立ち寄っては孫のように可愛がってもらったそうだ。こんなところに性格の違いが大きく現れる。(苦笑)
話を元に戻すと、遼三さんとキヌさんのおふたりが共同作業で産み出した素晴らしい浅沓たち、今も誰かが使ってくれているのだろうか? 伊勢神宮の祭典を拝観すれば奉仕する神職の足元にはザクザクと玉砂利を踏みしめる浅沓がいる。また地域の神社もしかりだ。最近、特に気になっているのは池田厚子さんの後任として祭主となられた黒田清子さんが第62回神宮式年遷宮で臨時祭主として奉仕された際にも足元にあった朱色の浅沓、さらには鷹司尚武さんから大宮司の職を引き継いだ小松揮世久さんの足元には漆黒の浅沓。伊勢神宮の新しいツートップが頼りにする浅沓は誰の手によってつくられたのだろうか? とても興味深い。
伊勢における浅沓づくりの技は久田遼三さんから西澤利一さんへと引き継がれた。2012年2月に開催された伊勢市伝統工芸振興シンポジウムに於いて西澤さんからは「二名の弟子が式年遷宮に向けて頑張っている」ことを伺ったが、今となっては西澤さんも他界され伊勢での浅沓づくりは途絶えてしまったようだ。弟子として頑張っていた彼女たちはどうしたのだろう? 今の時代、浅沓の価格と需要、修繕の負担などトータル・バランスを考えると仕事としての浅沓づくりには現実性がないのだろうか? たとえば一閑張りの技を浅沓だけではなくアクセサリーや調度品などへとさまざまに展開し伊勢春慶のように復活できないものだろうか? 遼三さんが伝えてくれた『浅沓づくりの技と心』を。最近はそんな思いが私の頭に渦巻いている。 (桝屋善則)

 

 

 【久田遼三さんおよび浅沓に関する記録】

 

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