2014年10月19日(日) 熊野本宮大社および祓殿王子社跡 (車、徒歩)
昨年、5月〜7月の週末を利用して熊野古道伊勢路(伊勢〜新宮)を歩いた。
【参考】
その時の目的地は熊野三山のひとつである熊野速玉神社で、その後に熊野那智大社、熊野本宮大社へと続く熊野古道を歩きたいと思いながらも実現していない。
最近は第62回神宮式年遷宮の別宮での諸祭儀や行事の拝観に明け暮れていたが、今週はその間となり時間が空いたので【キタヰの妻】と出かけることにした。
産田神社を訪れてみたかったので第2回花の窟錦の御幡献上行列を見学がてら・・とも思ったのだが、ホームページを確認すると規制が多くお参りどころでは無さそうだたので、急遽目的地を変更した。
いつも単独行なので、たまに二人で出かけるなら遠出することにし熊野本宮大社を目指すことにした。
【参考】
伊勢を発つと有料道路を使わずに紀伊長島までは国道42号を南下し、その先は紀勢自動車道、国道42号熊野尾鷲道路を乗り継ぐと新宮からは国道168号で熊野川を遡った。
現地に到着すると「満車」と表示されている世界遺産熊野本宮館の駐車場へ敢えて進むと入れ替わりで出庫する車があり偶然にも駐めることができた。
車を後にし音無川通りを横断歩道で渡ると
熊野本宮大社の前に立った。本来なら歩いて到着すべきところをまずは車で訪れてしまった。
団体の参拝者が参道へ吸い込まれるのを待ってから鳥居をくぐった。
鳥居をくぐると右手には「神社のお参り」について解説する看板が立て掛けられていた。
熊野大権現の幟旗が立ち並ぶ参道を進むと
左手にはメニュー看板とテーブルと椅子が数セット置かれていた。「えっ、こんな所に?」
あまり深く考えずに先へ進むと参道は石階へと変わった。
一段一段進むと
左手には次の小祠が祭られている。こちらは功霊社だろうか?
さらに進む(上る)と参道の隅にはこんなベンチが置かれていた。休憩ポイント。
この向かいには祓戸大神が祭られていて次の案内板が立っている。しかし、こちらにお参りする方はかなり少なかった。
ご参拝の皆様は左手 祓戸大神をお参りされてからご本殿にお進みください。
我々はこの指示に従って
最初にお参りした。
祓いを受けてからさらに石階を進むと
手水舎(手水社を撮影するのを忘れていた)の脇には次の熊野神社(全国)分布図が示されていた。
その横には「奉拝の諸心得」。
参道を挟んで手水舎の向かいには旧御本宮御社殿絵図があった。こちらは大斎原で明治二十二年に未曾有の大洪水により多数の社殿が流失する前の姿を描いたものである。
その隣には「正遷座百二十年大祭」について記された立札があった。
正遷座百二十年大祭
熊野本宮大社は、左絵図のように熊野川の中洲に鎮座しておりました。明治二十二年の大洪水により多くの建造物等が崩壊、流失し、多くの人々の命も失われました。かろうじて現在の御本殿(上四社)が残り、百二十年前に移築し御遷座されました。
私達は、先人達の経験を受け継いで、こうした自然災害に学び、吉野・熊野・奈良の貴重な自然や文化遺産を保護・保全し、後世に残していく責務があります。
現在、平成二十四年の正遷座百二十年大祭の斎行に合わせ、御社殿の全面的は修復工事が行われています。ご参拝の皆様方には、ご迷惑をお掛け致しますが、ご理解とご協力下さいます様、なお、奉賛募金につきましても、ご協力賜ります事をお願い申し上げます。 熊野本宮大社
さらに進むと
右手には宝物殿。
左手には「主な年間祭典」が紹介されていた。
参道が水平になると前方には神門が望める。神門までの両側には様々な授与品が・・・。
まずはお参りするために神門へ近づいた。
ところが神門の手前右手に社号標を発見。
こちらは
旧社号標
当社の社号は現在熊野本宮大社であるが、平安時代初期に編纂された延喜式神名帳に「熊野坐神社(くまのにいますじんじゃ)」と記されている。
その後「熊野本宮」という名称が定着したが、明治四年「熊野坐神社」を正式社号として登録、公表した。
この社号標は、昭和□年□月の建立で、時の首相近衛文麿公爵の揮毫によるものである。
この隣には御由緒ほかの案内板があった。
また、神門の左手には
次の注意看板があり、「これより先 神門内撮影禁止(尚、参拝祈念撮影、その他については、必ず社務所に届け出、許可を得ること)」と記されていた。
早速、社務所にて撮影について確認すると目的を問われ。「ブログに掲載します。」と返答すると「ブログのための撮影はできません。」との回答だった。どんなブログなのかの質問も無く即答だった。SNSやブログなどへの掲載は制御できないからダメなのだろう。(しかし、無断で掲載していると思えるものも多いのだが・・・)まぁ、ルールには従わないといけないので神門内ではカメラを封印し心眼に焼き付けることとした。
しかし、裏を返せば、神門外では自由に(?)撮影できるということだ。神門をくぐる前にパチリ。
神門内の様子は先に紹介した公式ホームページをご覧いただくこととし、神門をくぐった。
檜皮葺きの屋根には惹かれたが期待したほどの感動はなかった。やはり、この場所は熊野古道を歩いて訪れるべきところ(なお、訪れるべきところは実はこの場所ではなく大斎原なのだろうか)・・・・。
とにかく無心でお参りを済ませると神門をくぐり返した。
神門の外側の石段にはこのような剥離が見られた。
神門を後にすると隣にある拝殿へと向かった。
拝殿の近くには八咫ポストと名付けられたポストがある。毎日回収され記念の八咫スタンプが押印されるとのこと。
拝殿の前には八咫烏の石造。
拝殿の左方向へ進むと次の案内板を見つけた。「祓殿王子社へ これより100m先」
矢印に従って参道を進むと
鳥居をくぐり、熊野本宮大社の社域を出た。
左方向の坂道を進むと目の前には社叢。
こちらの説明板の右側には
熊野古道 中辺路 75の道標が建てられている。
そして、こちらが祓殿王子社跡の説明板。
祓殿王子跡
前世と現世に心身に積もった汚れを祓い清め、日本第一の霊験をもって知られる熊野三所権現の神威にすがって、祈願し、生命力を蘇られることを目的とする熊野参詣では、禊ぎや祓いが重視された。
中でもこの王子での祓いは、熊野本宮参詣の前に行うもので、これまでの道中での祓いにも増して重要であった。
天仁二年(1109)に貴族・藤原宗忠(1062〜1141)は、水呑王子に参拝したのち野路をたどり、祓いを済ませてから本宮の宿所に入って、翌日の参拝に備えた。
また、およそ百年後の建仁元年(1201)に和歌の講師として熊野御幸に供奉した貴族・藤原定家(1162〜1241)は、この王子近くの地蔵堂で後鳥羽上皇の一行を待ち、本宮の神前に向かった。
和歌山県
そして、その隣には「禁殺生」の文字が刻された石柱が建っていた。
別の記事でも紹介したのだが、三重県内でも「禁殺生」と刻された石柱を目にすることがある。
『嬉野史 通史編』付章 第三節 嬉野の石造文化財 の五『「禁殺生」石碑と紀州藩寺社施策』には「禁殺生」石に関する調査結果が報告されている。要約するとこんな感じ。「南紀徳川藩史」によると紀州藩第六代藩主宗直の治世、享保八年(1723)には地元の神社に境内膀示の点検や殺生禁断の指示があり(理由は?)、紀州藩領にある主要な神社に対して「禁殺生」の制札ないし石碑を建てさせる旨の指示があったと思われる。三重県内の紀州藩領においても同様 の寺社施策が行き渡ったのではないか。なお三重県内にある「禁殺生」石の建立年は享保癸卯(1723)、享保甲辰(1724)、享保丙午(1726)の三種類である。
【参考】
祓殿王子社にお参り。
石造りの小祠は表面が劣化している?
祓殿王子社跡から熊野本宮大社の境内へと戻ると参道脇に掲げられている御本殿桧皮葺替工事概要説明板を確認した。ここには本殿の姿が紹介されていた。
以上で熊野本宮大社を後にするのだが、参道の石階を上る際に見かけた「祈りの道(熊野古道)」を下ることにした。参道から右方向へ入ると直進は立入禁止で左方向へと下る道がある。
こちらは整えられた石階という雰囲気ではなく、大まかにカットされた石が配置された石段だった。
足元に注意しながら下ると
いきなり視界が開けた。
下った先は瑞鳳殿の前だった。
以上で熊野本宮大社を後にすると当社の旧社地である大斎原(おおゆのはら)へ向かった。
【 20141019 の記録 】
- 熊野本宮大社および祓殿王子社跡
- 大斎原付近の熊野川、産田社ほか
- 神倉神社、急峻な石段と御神体であるゴトビキ岩
- お白石持行事の準備が進む瀧原宮への奉曳ルート