2015年05月09日(土) 神田御田植初 御田植式、団扇合わせ(神宮神田) (車、徒歩)
「神宮神田とは?」、神宮のホームページでは次のように解説されている。
伊勢市楠部町 作付面積約30,000平方メートル
神宮神田の起源は、倭姫命がお定めになったと伝えられ、大御刀代(おおみとしろ)または、御常供田(みじょうくでん)といわれていました。
毎年、地元の人々の奉仕のもと、神宮にて1年間に行われるお祭りの御料の粳米(うるちまい)と糯米(じゅまい=もち米)が、五十鈴川の水を使って清浄に育てられています。その年にとれた新米は、神嘗祭を始めとする祭典で大御神に奉られます。【引用】 神宮神田 | 伊勢神宮
神宮神田にて執り行われる祭典、式および行事は次の通りで、
神田下種祭 (祭典) |
神嘗祭をはじめ諸祭典にお供えする御料米の稲種を神田にはじめて下し奉るお祭り |
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神田御田植初 (行事) |
神嘗祭をはじめ諸祭典にお供えするご料米の早苗を植える御田植式が地元楠部町の神宮神田御田植祭保存会の奉仕により、古式ゆかしく行われる行事(県指定無形文化財) |
抜穂祭 (祭典) |
神嘗祭に奉る御料米の御稲穂(おんいなほ)を抜きまつるお祭り |
神田下種祭と抜穂祭は祭典だが、神田御田植初は行事である。
本日、神田御田植初 御田植式を拝観した。神田御田植初では、猿田彦神社での御田植祭にて奉仕する神宮神田御田植祭保存会の面々が奉仕する。
【参考】
- 猿田彦神社 御田植祭 2015年05月05日
その経緯については伊勢市史第8巻-民俗編に次のように紹介されている。
伊勢には現在神宮神田の御田植、猿田彦神社の御田祭、そして大正頃始まったのではないかといわれる高羽江社の御田植がある。前の二つは、中世より続く内宮の御田植行事が現在に引き継がれている。この御田植は、大きく分けて田植えを中心とする部分と、政所で行われた踊りの部分に分かれており、これらは、室町時代の田楽や田遊びの形を残しているのではないかと思われる。神宮の御田植は内宮・外宮とも、江戸時代を通じて神宮の多くの史料に見られ、明治四年の御田の買い上げで中止されるまで続けられていた。その後、猿田彦神社の御田植として、楠部に伝わっていた内宮の御田植行事が行われるようになり、大正十三年に神宮神田でも「御田植初」が再興された。一方外宮の御田植行事は復興されることはなかった。
また、この説明にあるように神宮神田での御田植式も「田植え」と「踊り」の二部構成であり、「田植え」は神宮神田にて、「踊り」はお伊勢さん125社のひとつである大土御祖神社にて執り行われる。
伊勢市史第8巻-民俗編を参考にしながら紹介することとし、この記事では神宮神田での御田植式(御田植え、団扇合わせ)を紹介する。
御田植式は9時からの開始予定、8時40分頃になると楠部町公民館から大団扇を先頭に列を成して歩いてきた神宮神田御田植祭保存会の奉仕者が神宮神田に到着した。
花火が打ち上げられると神田御田植初 御田植式の開始が告げられた。
神宮神田事務所前には奉仕者(神職ほか)、来賓が列立し、修祓を受けた。
神宮からは権祢宜・宮掌・作長各1員、作丁2員、神宮神田御田植祭保存会からは笛生3名・ササラ(1mくらいの擦りザサラ)2名・楽打(大太鼓)2名・大鼓1名・小鼓1名・大団扇2名・舞人(田植人:たうえど)10名・綱係2名、苗係2名(移動の時に大太鼓を担ぐのでガクツリ〈楽吊り〉ともいう)、他に女性の田植人10名が奉仕した。
まずは来賓が事務所前を出発すると神田祭場へと近づいてきた。
続いて、神宮衛士に先導された神職、大団扇、田植人、
さらにその後には囃子の笛生らが続いた。
来賓が式場となる神田祭場のテントへ到着した頃
奉仕者は
神田の西側を進むと
神田の北側を通り、東側に着座した。
まずは、作長が献饌。
続いて神職による二拝を終えると
撤饌となった。
かなり簡単だ。
次に、作長(黄色い衣装)が神職から「サンバナエ(三束苗)」を受け取ると
三束苗を捧持しながら
鯨幕が張られた囲いをぐるりと右に巻いて
神田の北側中央へと戻ってきた。
神田の北側中央にひと束を落とすと
続いて西側へ移動し、ここでもひと束を落とし、
最後に東側にて残りのひと束を落とした。
作長が中央へ戻ると
二員の作丁は着物の裾をたくし上げ、神田へと足を踏み入れた。
それぞれが中央から東西へと田植えが開始された。
作丁は両者の進む具合をお互いに確認しあうと東西の端で折り返し
中央まで戻った。
御田植式の開始を宣言する田植えを終えると作丁は神田の北側に流れる水路にて足についた土を洗い落とした。
水路から上がるとたくし上げた裾を元に戻して、着衣を整えると一拝にて作丁による田植えは終了となった。
先ほどまで三束苗を乗せていた折敷が元に戻されると
神職等は役割を終え、テントの下へと移動した。
続いては、神宮神田御田植祭保存会による田植えと団扇合わせに・・・
囃子を担当するのは次の9名、神田の南側の中央へと移動した。
囃子の内訳は先に紹介したように笛生3名・ササラ2名・楽打(大太鼓)2名・大鼓1名・小鼓1名で、その衣装は笛生が青色の素襖に赤色の烏帽子を着け、ササラと大鼓と小鼓は橙色の素襖、楽打は茶色の素襖で黒の侍烏帽子を着ける。足元は全員が白足袋に草履である。
一方、田植人の男女各10人が交互に神田の北側に並ぶとその両側に綱係、苗係が配置され、大団扇は神田の南側の両端に配置された。
男性の衣装は肩のところに青い線の入った白の帷子、腰を藁紐で縛っている。舞人(田植人)は黄色い襷、それ以外の6名は青い襷を掛け、着物にはすべて丸に大の字の紋が入っている。女性は白衣・赤襦袢・赤色の帯・赤襷・白い手甲に脚半をつけ頭に大の字が書かれている手ぬぐい、菅笠をかぶっている。足元は男女全員が裸足で藁草履を履いている。
田植人が神田へ足を差し入れると楽に合わせて田植えが開始された。
綱係は綱を張り、苗係が苗を投げ入れる。笛に合わせて大太鼓・ササラ・大鼓・小鼓の囃子は繰り返される。神田の北側から南側までを囃子に合わせて丁寧に植えられた。約40分で。
テントの背面にはその様子を見守る拝観者が多数。こちらにも、
そしてあちらにも・・・、さらにその背面にも・・
テントの下は神職と来賓。
田植えが着々と進められるなか、作丁が神田の周囲を移動していた。「何をしているのか?」とその動きを追ってみると、
彼は田植人が脱いだ藁草履を
神田の南側へと移動させていた。
その間も田植えは続いていた。
テント左側へと視線を振ると拝観者の間にビデオカメラが・・・、それは東海テレビのカメラだった。
「このスタンス、いいな!」、これは拝観者の視点だった。
私が別の部分で感動していると田植えは終盤を迎えていた。
そろそろ完了するかと思われる頃、
神田東側からプレスの姿が消えた?・・・と思ったら
さらに東側へと移動していた。
田植えが終了すると、田植人が南側の水路で足に付いた土を洗い落とした。
ひとり、ふたり・・・水路から・・・
全員が足を洗い終えると、団扇合わせの準備が始まった。
西側の畦にはか大黒が描かれた大団扇と5名の舞人、毎人は大黒が描かれた扇を右手に、割った竹を組み合わせ表に紙を貼り、そこに模様と丸に大の字の紋を描いた、幅約七センチ長さ約一メートル程の「羽団扇」を左手に持つ。
東側の畦には恵比寿が描かれた大団扇、と5名の舞人、彼らが右手に持つ扇には恵比寿が描かれている。左手には「羽団扇」を持つ。太鼓の合図で大団扇が神田の中央へと向かった。
大団扇を交差させてから、
団扇を持って左に三回廻ると
両方の大団扇を合わせて南北に倒す。
大団扇を南北に倒す時、舞人は東西の畦で北向きに左足を前にして立つと、左手で羽団扇の上の方を持って左足前に立て、右手で扇をかざして準備をする。大団扇が南北に倒された時に太鼓がドンと鳴らされる。舞人は「ヤアー」の声を出し、左手の羽団扇を上にして前に出すと扇を左脇後ろに引く。次に大団扇が反対側へ倒された時、「ヤアー」に合わせて右足を前に出すと右手の扇を後に引き、左手の羽団扇を肩の所まであげる。これを繰り返すのであるが、足は前に進むばかりでなく、後に引くこともあるので、前へ進まない。こ
の時の笛の音は二音の繰り返しであり。この舞を行司取りという。
猿田彦神社の御神田とは異なり、神宮神田での団扇合わせに勝敗はない。団扇合わせが終了すると神田での御田植式は終了となった。
続いては、次の式場となる大土御祖神社へ移動となった。
こちらは、拝観者に配布された団扇。舞人が手にする扇と同様に大黒および恵比寿が描かれた二種類がある。
今後このありがたい団扇を使用して炭を起こそう!
【 20150509 の記録 】
- 神田御田植初拝観の前に(大土御祖神社、神宮神田ほか)
- 神田御田植初 御田植式、団扇合わせ(神宮神田)
- 神田御田植初 おどりこみ、大団扇破り(大土御祖神社)