2015年04月11日(土) 大皇神社(度会郡大紀町崎) (車、徒歩)
宮川流域案内人の会主催行事「清流宮川の支流を歩こう! 大内山川界隈散策(大紀町)」 の途中で立ち寄った大皇神社(度会郡大紀町崎)。私にとって思い入れの深い神社だったので別の記録とした。
それは、二年前に熊野古道伊勢路を細切れに歩いた二日目、JR紀勢本線 三瀬谷駅から紀伊長島駅の間を歩いた日、街道の脇にこの社号標「大皇神社」を見かけたのだが、まだまだこの先でツヅラト峠を越えることを考えると精神的にも身体的にも余裕を持つことができなかった私はこの数十mの往復を断念してしまった。
【参考】
いつかは訪れたいとの思いを秘めながらもなかなか訪れる機会をつくることができずにいた・・・。今回の大内山川界隈散策(ウォーク)では瀧原宮をも素通りしたので、こちらへもお参りできないのだろうと思っていたところ、いきなりの参拝となった。
何とも感動的な参拝!
街道脇に準備された駐車スペースの右端から
石階を進み鳥居をくぐると
その先、右手には
立派な社務所が建っていた。
さらに石階を進むと
皆が注目していたその場所にあったものは
「右 いせ」と刻された道標だった。どうもこの前に古道が通っていたのか? しかし、ある参加者の話によると「この道標は別の場所から移されたかも?」、たしかにそれもあり得る話だ。
道標を後にしてこの先の鳥居をくぐると
手水舎付近にて案内人の方から説明を頂いた。
大皇神社の氏子はすべて小倉さんであるとのこと。また、木地師の起源もここにあるなど・・・、その他の内容は記憶できなかったが、後ほど紹介する由緒板に概要が記されていた。
こちらは巨木が多く、見上げるばかりだった。
皆さんはお参りすることもなく熊野古道へと戻ったので、急いで拝殿への石階を登ると
お参り。
急いで皆の後を追ったが、
拝殿前の石階下に由緒板があることに気付き、引き返してパチリ。
由緒(略)
当大皇神社は、主神惟喬親王をはじめ五柱の神をお祀りしてあります。
惟喬親王は、第五十五代文徳天皇第一皇子で、代五十六代の天皇になられる方でありましたが、当時藤原氏が宮中で権勢をほしいまゝにしていた為、藤原氏の血すじの義弟惟仁王に帝位をおゆずりになり、淡海の国の小野の宮に住まわれました。
親王は、木の実の落ちた「ガク」をご覧になられ木地物を作ることをお考えになり、お供の小椋中納言実秀卿を通じて、広く氏子の方々に教えられました。これが木地屋発祥の由来であります。
たまたま親王は治田越を越え、飯南郡川俣谷を経て柏崎の現在の社地に住居され、この里の人々に木地物を作る業を教えられ程なく京都にお帰りになられました。
親王の寵臣実秀卿の後裔小椋助之丞、親王の御分霊を淡海の君が畑より奉持してこゝにお祀りしたのが承久二年四月九日で、当初大皇大明神と称せられていましたが、明治四年に大皇神社と改称せられ村社に列せられました。が第二次世界大戦の終結の際の事情により社格が廃止されました。
創祀以来、七百七十有余年の今日まで私供一族の氏神として信仰を集め、郷土の山林関係、商売、金属、木工業、手工業等の神様として親から子へ、子から孫へ、と永遠に受けつがれ、式年の造営も先祖の志をついで欠かさず斎行され現在に至っております。大皇神社の祭り
一月一日 歳旦祭
二月二十三日 祈年祭
四月九日 春季大祭
六月三十日 夏越の大祓
十一月三日 文化の日祭
十一月二十日 新嘗祭
十二月九日 秋季大祭
十二月三十一日大祓・ドンド火
大皇神社
境内で走ってはいけないと知りながらも早足で皆の後へ続いた。
何とも感動的なお参りとなった。
また、訪れよう!
【 20150411 の記録 】
- 三瀬谷神社(多気郡大台町佐原)
- 宮川流域案内人の会主催行事「清流宮川の支流を歩こう! 大内山川界隈散策(大紀町)」
- 大皇神社(度会郡大紀町崎)