2015年06月21日(日) 社殿の裏手にある石積の石壇、宇治山田神社(皇大神宮摂社) (車、徒歩)
私がFacebookでフォローしている平津豊さんの投稿に次の内容を見つけた。
内宮(皇大神宮)の摂社である宇治山田神社の社殿の裏手に小さな石を積んで注連縄が張られた場所があることが紹介されていた。宇治山田神社自体が非常にわかりにくい場所にあり参拝を拒んでいるのではないか? そして、伊勢の神宮によって隠されてしまった古代祭祀場ではないか?
宇治山田神社はお伊勢さん125社なので何度も訪れたていた。しかしながら、社殿の裏に隠された石積については知らなかった。これは現地を確認するしかない。雨が小降りになってから宇治山田神社を目指した。
また、先の投稿には場所がわかり難い旨のコメントも添えられていた。たしかに近くに駐車場所はないし、参道の入口は???だ。そこで、今回は車での訪問を想定した参拝経路を設定した。近くに月讀宮が鎮座しているので、月讀宮にもお参りすることとしてこちらの駐車場を利用することにした。
月讀宮の駐車場(国道23号沿い)に車を駐めると宇治山田神社の社叢である興玉の森を前方に見つつ月読宮前交差点を右方向(内宮方向)へ歩く。
次の交差点は 中村町北交差点、ここで歩道橋を渡る。
中村歩道橋を渡ると
その正面に興玉の森が望める。歩道橋を下ったら右方向に見える路地を真っ直ぐに進む。
その路地へ入ってから途中で振り返って歩道橋をパチリ。
路地を先へ進むと丁字路となり興玉の森に突き当たる。ここは右折。道なりに進むと
この交差点に出るの興玉の森を巻くように進む。
参道の入口はこのアパートの端部。ここで振り返ると
目の前が宇治山田神社の参道入口となっている。確かにわかり難い場所にある。
参道を数歩進むと左手には小さな社号標が建てられている。
「宇治山田神社」
私が滑りやすい足元に注意しながらゆっくりと参道を歩いていたところ、後ろからやって来た男性が「こんにちは」と言いながら私を追い越していった。
私は彼の後を追うように
石階を上った。
苔むす参道、濡れた石も滑りやすいので、雨の日は注意が必要だ。
その男性はお参りを済ませると社殿に向かって指差呼称で「よし、よし、よし・・」と点検していた。後でわかったのだが、その男性はこちらをお守りしてくださっている方だった。定期的に社殿の様子を確認しているとのことだった。
私もお参りを終えるとその方が社殿の背後から戻ってきたので「石積み」について質問した。
最初は何のことだがうまく伝わっていなかったようだが、繰り返して説明したところ、その石積みの場所まで案内してくださった。社殿の裏手10m以上は奥まったところだった。摂社や末社は神宮の敷地なのでなるべくウロウロしないようにしていたので、この場所へ訪れることがなかったのだった。
左側に石積み、そして右の奥には小さく見える宇治山田神社の社殿。
こちらがその石積の石壇の全貌だ。お守りの方によると石段は以前からあるもので注連縄が地元の方が掛け替えてくれているとのこと。(お守りの方は忙しそうだったので、これ以上伺うことがなかったが、その方はどなた?か伺っておけばよかった。)
お守りの方は戻られたが、私はしばしこの場に佇んでいた。
この方向に宇治山田神社の社殿がある。
たまたま傘を持っていたので、サイズ感を確認できるようにビニル傘とともにパチリ。
石壇からもどるとこの場所にたどり着く。
つまり、御敷地の左端から奥へと・・・
私はこの石壇を見つけた満足を感じつつも石壇の役割に対する疑問が頭をよぎっていた。参道を戻ると
アパートが見える場所まで戻った。社域を出ると今後は左へ進んだ。
興玉の森を左手に望むように社叢を巻いて進んだ。ここも、
ここも、
後は民家が建ち並ぶ狭い路地を進むと先の国道23号 月読宮前交差点へ到着する。
帰宅後に「興玉の森」にて調べたところ、国会図書館の近代デジタルライブラリーにて猿田彦神社講本部が編集した「神宮摂末社巡拝 下」に先ほどの石壇の目的に関する手がかりを見つけた。現地調査は必要だろうがこれはかなりの手がかりである。その内容は次の通り、
「神宮摂末社巡拝 下」30頁、「興玉の森」の項
北中村の御側橋(おそばばし)を渡った所にある小高い丘陵の森を興玉の森と呼んでゐる。興玉の神、即ち猿田彦大神(或はその子孫の太田命(おほたのみこと)ともいふ)が、居住し給ひし舊跡である所から、こゝを興玉の森と呼ぶのであるといはれてゐる。一名を上(うえ)の杜(もり)とも亦猿田彦の森とも言はれてゐる。
この森の小山の頂上の西側に、一つの石積の石壇がある。これが興玉の神の拜所である。注連縄(しめなわ)を張つて、東の方を向いて、この森の中央を拜むやうになつてゐる。もとは、この石畳(表八尺横三尺)の前に鳥居が建てられてゐた。こゝの拜所は昔から猿田彦大神の子孫である宇治土公氏が、自分の祖先の祭りある氏神祭をした所で、四月の初の申日に、この祭りが行はれてゐる。このことは鎌倉初期の神宮の記録である建久の皇大神宮年中行事の中にも見えてゐる所から推して、既に八百年以上の昔から行はれてゐたものであることが分る。今でも、毎年、新年には新らしい注連縄が懸け替えられ、宇治土公氏は、こゝに氏神祭りの遺風を繼承してゐる。宇治土公氏の祖、興玉神(猿田彦大神)は、伊勢五十鈴川上の地主の神であり、又、その子孫である太田命は楠部の神田を献じてゐる。宇治土公氏の名前自体も宇治の土公(豪族)であることを示してゐることなど思ひ合はすならば、この地に宇治土公氏祖神の墳墓があり、これに於て氏神祭りの行はれて来たことは當然なことゝ言はなければならない。
また、次に続く「宇治山田(うじようだ)神社」の項
この興玉森の南に皇大神宮の攝社宇治山田神社が鎭座まします。もとは山の麓で五十鈴川に臨んだ所にあつたといはれてゐる。中世社地湮滅せしを、明治二年、現在の所に再興したものである。御祭神は大水上の兒、山田姫命(やまたひめのみこと)を御祭り申上げてゐる、水の神で、御鎮座地の山田の守り神である。倭姫命の御世、祀られた神社である。
今後、現地での聞き込みなどフィールドワークの機会を作ることが必要だ。
また、なぜ宇治山田神社を「うじようだじんじゃ」と呼ぶのかについても?
【 20150621 の記録 】
- 社殿の裏手にある石積の石壇、宇治山田神社(皇大神宮摂社)
→ お伊勢さん125社の摂社・末社等に置かれているバケツの正体 - 改修工事中の秋葉神社(伊勢市中村町)
- 雨の日なお美しい月讀宮、葭原神社(皇大神宮別宮および末社)
- 鏡宮神社(皇大神宮末社)に残された松明の跡、月次祭の名残?