2015年01月17日(土) 金網山西方寺(奈津観音堂)付近の散策、西国三十三番札所めぐりほか(南伊勢町河内) (車、徒歩)
雨の中、国道260号を走っていると訪れたかった金網山西方寺(奈津観音堂)付近に到着。昨年末に仙宮神社を訪れた際、お参りできなかったので今回はぜひともお参りしたかった。
【参考】
- 先週に続き再訪の仙宮神社、猿田彦命の体現(南伊勢町河内) 2014年12月21日
- 「禁殺生」石に導かれて仙宮神社へ(南伊勢町河内) 2014年12月13日
方座浦を後にしてから雨が降り続いていたが、西方寺の近くで停車して雨宿りしていたら雨が上がり始めた。
車中から神前湾に浮かぶ弁天島をパチリ。
雨が上がるといきなり太陽が顔をのぞかせた。
まずは金網山西方寺ヘ向かうと
本堂にてお参り。
【参考】 西方寺については、こちらの記事が参考になる。
西方寺の前を走る国道260号を横断すると
その先には神前湾が広がっている。
海に向かって階段が下っていた。
国道を再び横断するとその先には南伊勢町営バス 奈津観音前 バスのりばがある。
これは、先に紹介したゲンキ3ネットの記事にもあるように
正式には「金網山 西方寺(こんもうざん さいほうじ)」。
しかし地元では、奈津観音堂として親しまれている。
ことを物語っている。
西方寺まで戻るとお堂の左手に続く階段を見つけた。階段→裏山、興味深い場所だ。
早速、その階段を進むと小径は直進と右折の分岐があった。(後で気付いたのはこの案内板)
私はこの石柱「史蹟 三狐神社」に引き寄せられて右折のルートを進んだ。
現在は 神前神社に合祀されているとのこと。
神前神社 – かみさきじんじゃ –
古くから地域の氏神様として親しまれてきています。この神社は、仙宮神社と一体となっておりその食事を司る神様でもある。毎年、夏の風物詩として多くの人々に親しまれている天王祭りは地区の伝統行事として永く受け継がれてきている。由 緒
当社は仙宮神社を上の宮といい、三狐神社を下の宮と唱え両社は、旧吉津村氏子の崇敬神社である。
明治42年2月5日旧度会郡吉津村大字河内字奈津乙119番地三狐神社、境内社八柱神社、八幡神社、奈津神社二社、大字河内字山ノ神甲726番地山神社、大字河内字宮山仙宮神社境内社穀太神社、古田神社、津島神社、大字村山字里山308番地津島神社、境内社穀太神社、八幡神社、田殿御前社、大字村山字駒崎383番地山神社、大字神前浦字土地201番地津島神社、境内社八幡神社、山神社、子安神社、大字神前浦字ヅババ331番地飛鳥神社、境内社后神社、大字神前浦字弁天島厳島神社、大字神前浦字下ノ谷307番地蛭子神社を大字神前浦字土地201番地津島神社へ合祀のうえ吉津神社と単称。昭和24年9月15日神前神社となる。【引用】 神前神社(三重県神社庁教化委員会) より
目を閉じて往時を想像。
さらに続く山道を進むと高度が上がり神前湾が少しずつ下方に・・・。
さらに進むと
山道はピークを迎え,下りへと転じた。荒れた沢筋を越えると
再び上りとなり、
左側からの階段と合流する。(帰りはこの階段を下ろうと決めた。)
さらに登ると山道は荒れ始めた。山道は崩れた土砂や
落ち葉で覆われていた。
また、山道が崩れている場所もあった。
足元に注意しながら進むとかなり高度を稼いだ場所で、視界が開けた。
弁天島が眼下に見える。
山道がこの先どこまで続くか不明だったので、寄り道はこれぐらいにして先ほどの分岐まで戻ると階段を駆け下りた。
こんな障害を越えながら下ると
多数の石仏が並んでいる場所に出た。台座には○○番と刻されていた。後で分かったのだがここは篤志家により石像観音が設置された西国三十三番札所となっていたのだった。
散策路(巡礼路)には東屋もあり、
海を眺めて休憩できる。
山道を下ると石像観音の札番号が小さくなる。
こちらは第二番、
そして、こちらが
第一番。
「史蹟 三狐神社」への分岐点にはこの説明板が立っていた。
散策を終えて西方寺の前に戻ると巨木をパチリ。
さらにお堂の屋根の擬宝珠を確認すると
お寺の庭にこんなものを見つけた。これは古いものか。ネコと比較するとその大きさが分かる。
西方寺を後にすると
神前湾を眺めてから近くにある倭姫命腰かけ岩へ向かった。
【 20150117 の記録 】
- 覆屋のみが残された古殿地(瀧原宮、瀧原竝宮)ほか
- やっと訪れることができた並大神社(大紀町崎)
- 南伊勢町営バス 栃木バスのりば付近の祠(南伊勢町栃木竃)
- 芳草神社(南伊勢町方座浦)
- 金網山西方寺(奈津観音堂)付近の散策、西国三十三番札所めぐりほか(南伊勢町河内)
- 史跡 倭姫命腰かけ岩(南伊勢町河内)
- 河内川が流れ込む神前湾で乱舞するカモメ(南伊勢町河内)
- 五ヶ所浅間山の遠望(南伊勢町五ケ所浦)
- 古殿解体中(伊雜宮)