加牟良(神村)神社々地跡(伊勢市御薗町高向)

2015年01月02日(金) 加牟良(神村)神社々地跡(伊勢市御薗町高向) (徒歩)

御薗神社から高向大社へ向かい、宮川の右岸堤防道路が宮川大橋と交差するトンネルを抜けた先にある宮川 I.C.西交差点に到着。この丁字路に立つ送電線の鉄塔の下には石碑が建っている。

宮川 I.C.西交差点

宮川 I.C.西交差点

 

石碑の存在は知っていたのだが、なかなかこのルートを歩くことが無かったので確認できずにいた。

近づいて確認すると「ほ場整備事業竣工記念碑 三重県知事 田川亮三」と刻された石碑の右側には

加牟良(神村)神社々地跡(伊勢市御薗町高向)

加牟良(神村)神社々地跡(伊勢市御薗町高向)

 

「加牟良神社跡顕彰碑」が建つ。

加牟良(神村)神社々地跡(伊勢市御薗町高向)

加牟良(神村)神社々地跡(伊勢市御薗町高向)

此地は往古大野と称し、松杉鬱蒼とし、河川環濠して神苑聖域を成せり。千古以前より此処に高向郷の一邑加村(神村とも)在りて里人の祭祀せる加牟良社が鎮座せし神聖地矣。
当社は貞観三年八月に高向住人の三津正盛が私祭したるを創祀と伝矣。中世の文安年中には神村は既に廃亡して、文明年間の頃には当社は蕪社とも称せられる。加牟良社ないし蕪社の両称を於て、後世、之を承継して、近世近代、現今に至矣。
明治末期、国家神道の制令に従て、同四十一年七月十五日を於て、高向大社之合祀の官許を得て、同年十月廿一日に、加牟良神社の合祀執行し焉矣。以後、昭和十三年八月の水難災厄後に、社地跡の煙滅を憂て一碑建立す。
今般、此地辺境の土地区画圃場整備事業の施行を利して、社地跡整備し。当該碑文を撰して、後古悠久に顕彰せんと為者矣

秋日女乃命 い者ひて この里を
かむらと越し毛 名をおふせ介無
「松杉集」所蔵 秦 秀益 作
昭和五拾九年二月吉日建立
高向区

 

さらに顕彰碑の裏側へ回りこむと碑に対して後ろ向きに建つ石柱には「神村神社々地阯」と刻されている。

加牟良(神村)神社々地跡(伊勢市御薗町高向)

加牟良(神村)神社々地跡(伊勢市御薗町高向)

 

「加牟良」も「神村」も「かむら」と読むのだろうか(正解は「かぶら」)。そして、高向大社の御頭神事の記憶が蘇った。それは次の内容・・・

高向大社には、大社(かみ)と鏑社(かぶら)の二社が合祀されている。高向地区の氏子は大社と鏑社とに分かれ、自宅の入口にかけるしめ縄の形状や御頭の雌雄、さらには御頭神事でも重要な位置を占める祷屋が奉斎するオワケ(オハケ)の規模も異なるそうだ。

【参考】 御頭神事(高向大社)- 御頭衣装着付け他 2011年02月12日

 

さらに、昭和56年に自費出版された「国指定重要無形民俗文化財 御頭神事奉祭次第記(曽野洋 著)」を読みなおすと「まえがき」には次の内容が紹介されていた。

高向区の御頭神事は「大社(かみ)」「神村社(かぶら)」の二頭の御頭があり、大社は、高向大社の御頭であり、神村社は、明治に高向大社に合祀された神村社の御頭である。
神村社の社名については、古記録によれば、神村社、加牟良社と記録されており、又、氏子総代中村功氏の言によれば、神事当日使用される祭典用具箱の箱書きには、鏑社分□□年と記されている。本書を記するにあたり、五十五年度区長、大西厳氏に、会所としてのご意見を拝聴しましたところ、会所では鏑社と神村社の社名を使いわけている。つまり、会所内の記録は、鏑社を使い神事前日の人足告示には、神村社と記する胸のお話があり、現在神村社と鏑社の二種類を使用しているが、いずれも「かぶら」と読む、この為、本書では三重県神社庁蔵「合祀済神社明細帳」に記されている「神村社」を使用した。

 

この地こそ、高向大社に合祀されている「かぶら」 = 「加牟良神社」 = 「神村社」 = 「蕪社」 = 「鏑社」の跡地なのだろう。高向大社の御頭神事に対する興味がより高まった。

 

【 20150102 の記録 】

 

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