2015年01月24日(土) 本殿が檜皮葺の竹神社参拝と周辺散策 (車、徒歩)
国史跡斎宮跡での復元建物工事見学会に参加したところ盛況のため一時間以上の待ち時間となった。
【参考】
その待ち時間を利用して工事現場周辺を散策したところいくつかの発見。
工事現場から近鉄側へ出ると
正面には竹神社の社叢が望める。
近くにある近鉄 踏切道 斎宮第二号を渡ると
その先右手には鳥居があり、竹神社の参道が続く。正面は伊勢街道に面しているので、こちらは裏の参道だろうか。
しかし、鳥居をくぐるとすぐ近くに拝殿が建っている。
まずは、お参り。
お参りを終え、私の目を引いたのは御扉の奥に見える本殿の屋根だった。
あれは檜皮葺き、斎宮跡での復元建物(正殿等)の屋根に採用されている。
思わず、見惚れるしまった。本殿の左側から・・・
さらに、本殿の右側からも・・・
帰宅後に調べていたら、斎宮跡での復元建物(正殿等)の檜皮葺き作業を担当している田中社寺株式会社は竹神社の本殿檜皮葺工事を施工した実績があった。
次のリンクによれば、昭和7年に施工している。檜皮葺きの寿命は30年から長くても50年くらいだろうか?
【参考】
さらに調べると、明和町歴史的風致維持向上計画によれば
もうひとつの「野々宮」は、伊勢街道沿いにある現在の「竹神社」の場所である。この位置は、調査結果から斎王が居住していた内院の一角にあたる。内院の範囲は、この場所の東側の区画を含めて2区画に及ぶが、この場所は、方格地割の衰退期の最後まで内院として存続していることも分かっている。廃絶後、斎宮の重要な内院の一区画が神聖な場所として、いつの間にか人々の信仰の場として形を替え、「野々宮」の名称で親しまれてきたものである。
この場所が信仰の場とされる初見は、承応3年(1654)3月の絵図に、「鳥居」の記号と「野々宮」が表記されている。
ここも明治維新の政策により、明治42年(1909)の合祀で斎宮神社と改称、さらに明治44年(1911)に竹神社と合祀し、名称を竹神社と改称し、斎宮地区25社すべてがここに合祀された。
竹神社は、明治44年(1911)、合祀された時に整備されており、以後20年毎に伊勢神宮の御遷宮と同様、遷座しており、昭和7年(1932)には、現在の本殿と拝殿を建立し、昭和27年(1952)は、手水社舎の建立、瑞玉垣の再造、昭和47年(1972)は、本殿檜皮葺替、基礎土台修復、瑞玉垣、拝門を再造、平成4年(1992)は、本殿檜皮葺替、幄舎の建設、瑞玉垣、拝門を再造している。このように20年毎に、建替えや改修等を行い、奉祝祭には斎宮小学校から竹神社まで稚児行列で御遷座を祝うなど地元の人々によって、この神聖な場所は守られ現在に至っている。
とあり、平成4年には本殿檜皮葺替が行われている。しかし、その20年後の平成24年は?
千木の下部付近の檜皮の劣化具合をみると最近の葺き替えではないのか? もう少し調べないと分からない。
竹神社の社域から近鉄の線路越しに斎宮復元建築工事現場をパチリ。
鳥居の先には『楽』がゆっくりと走ってきた。
撮り鉄ではないが、思わずパチリ。
踏切を戻ると斎宮復元建築工事現場とは逆方向に菜の花畑が・・・
近づいてパチリ、パチリ。
その片隅には次の説明板が建っている。
そこには内院とある。
内院
方格地割の中央にある内院は、二重の掘立柱塀で囲まれた内側に、斎王の御殿があったと考えられています。御殿の東側には、大型掘立柱建物や大きな井戸も見つかり斎王が生活していた建物であったことがうかがわれます。建物は、掘立柱の高床になっていて、屋根は桧皮葺であったと推定されます。
奈良時代後期に造られた内院は、その後建物が何度か建てかえられ、平安時代前期までは続いていたことがわかっています。
斎宮復元建築工事現場付近へ戻ると自転車の多さに気付き、
工事用のフェンスの間(透明な部分)から見学会の様子が望めた。
皆さん、真剣に聞き入っている雰囲気だった。
近鉄斎宮駅の方へ向かってから振り返ってパチリ。
「国史跡斎宮跡」の幟が立っていた。
この後は、近鉄斎宮駅まで足を伸ばした。
【 20150124 の記録 】
- 第6回斎宮跡復元建物工事見学会、檜皮葺き作業の実演(明和町斎宮)
- 本殿が檜皮葺の竹神社参拝と周辺散策
- 建設中の斎宮駅史跡公園口休憩所(近鉄斎宮駅北側)