2016年05月03日(火) 宮川流域案内人と大台のお茶を楽しむウォーク (車、徒歩)
本ウォークの内容は次のフライヤーにあるように
新緑・新茶の香る絶好の季節に、お茶を楽しみながら熊野古道伊勢路をウォーキング。お茶畑の景色も最高です。新茶加工場も見学し、神瀬の新茶畑を眺めながら昼食です。
であり、
コースは
JR栃原駅〜馬鹿曲・猿木坂神瀬地区(お茶を楽しむ)〜JR栃原駅
となっていた。具体的には栃原駅から熊野古道伊勢路へ合流すると次のマップに従って下楠まで熊野古道を歩いた。その途中、神瀬で新茶畑に立ち寄ると昼食、さらに神瀬共同茶工場の見学、古道沿いでは寄り道も・・・
このルートは何度も歩いたことがあるのだが、今回のガイドが尊敬する案内人である筒井 敏 さんだったこと、さらに馬鹿曲橋を下から見上げることができそうなこと、眼鏡橋に近づけそうなこと・・・などの多数の要素にワクワクしながら参加を表明した。(大袈裟か?)
【参考】
- 熊野古道伊勢路図絵を片手に(栃原から下楠まで) 2013年05月25日
- 熊野古道伊勢路(JR栃原駅〜JR川添駅) 2013年12月22日
→ バカ曲がり(熊野古道伊勢路)
→ 神瀬橋(眼鏡橋)
→ 殿様井戸(熊野古道伊勢路)
集合場所であるJR紀勢本線 栃原駅前に到着し、受付したところ本企画は大台町観光協会が提供するアウトドアプログラム「Verde」のものだった、午前10時過ぎにウォークが開始された。
こちらが筒井 敏さん。素晴らしい世界に惹き入れてくださいます。
挨拶とウォークの概要の説明が終わると早速スタート!
ルートの詳細については、先のリンクでも紹介してあるので、ここではかいつまんで・・・
JR栃原駅前を出発するといきなり前方を見上げて説明が始まった。あれは「水神山」。
【参考】
十字路へたどり着くと左手には奇祭 五身懸祭で有名な川添神社が鎮座している。
【参考】
なお、社務所の左側に続く道は、もうひとつの熊野街道で松阪へ通じているとのこと。
帰宅後に興味深いホームページを見つけたので、ここに紹介しておく。
【参考】
川添神社を背にして進むと庚申さんの向かい側に天王さんがまつられている。前回訪れた時とは異なり祠が新しくなっていた。それにしても祠が置かれている台はコンクリート製の桝を裏返したモノ?
熊野古道伊勢路と合流してから右方向へ進めばJR紀勢本線 新田踏切。踏切の手前を左へ進めば120mほどで「茶屋一願地蔵」がまつられている。しかし、私はまだおまいりしたことはない。
踏切を渡ると左側には歴史のある「旅館 岡島屋」がある。
こちらの家並みを抜けると
茶畑、線路・・・
そして、この先に
馬鹿曲り入口がある。熊野古道伊勢路を初めて歩いた際、参考にしたマップにはこの入口のことが記述されていなかったため、先に紹介した2013年05月25日の記録にあるように、悩んだ結果この場所をパスして馬鹿曲踏切まで歩いたことを思い出す。(その後、こちらを再訪し馬鹿曲りを歩いた。)
今回は何の不安もなく階段を下ると
道路と線路の下を抜けている暗渠をくぐった。
水は流れているものの片側に土のうが積まれているので、足元は濡らさずに進むことができた。しかし増水しているときは注意が必要だ。
暗渠を抜けるとこんな感じ。
振り返るとこんな感じ。
沢筋から登ろうとするとJR特急南紀が近くを通りずぎて行った。JRが街道を寸断するまでは水平に
この場所へとつながっていたのだろう。利便性を得るために無くしたものがここにもある。
馬鹿曲りを歩き始めるとここでは植物の説明。これは「イワタバコ」で
こんな花を咲かせる!
馬鹿曲りをさらに進むとこんな広い場所にたどり着く。こちらは茶屋跡。
茶屋跡の向かいには道標がありトラロープが張られている。じつはこの左側へ進むと本来の古道のようだが、今は国道42号で寸断されている。今は仮のルートとして右方向へ・・・
峠道のような斜面を下ると国道42号不動谷橋の下に辿り着き
本来の古道がこの場所で合流している。「神瀬集落へ・・・」の案内に従うと
ほどなく馬鹿曲橋。ここには「撮影ポイント」の案内板とともに下りルートがあったので
橋の下からパチリ!
この橋は石垣のこの部分で支えられている。何とも美しい!
馬鹿曲橋を後にし、不動谷橋をくぐると
もう一方の馬鹿曲り入口にたどり着く。こちら側は暗渠側とは異なりフェンスが張り巡らされている。
今は両側の入口にこんな地図が準備されている。
(地元の方々が整備してくださるので安心して歩けるようになった。)
格子の扉をしっかり閉じると国道42号へと続く坂道を進んだ。
国道42号へ合流すると、ここでもJR特急南紀と遭遇。
次の交差点
「神瀬」にて国道を離れると古道を進んだ。
こちらは四種類の神様が並べてまつられている珍しい多種神祠。左から順に「庚申」「津島天王」「皇大神宮」「山の神」。
神祠の左側にある立札には次のように記されていた。
庚申
神瀬には6ヶ所の庚申があり、青面金剛菩薩をお祀りしている。数年に一度巡る七庚申の日を「庚申さん」として祀り、その夜は身を慎み夜は眠らずに明かすという。
津島天王
本社な愛知県の津島神社、祭神は、須佐之男命であるが、平安時代以降厄除けの神様である牛頭天王と結び付けられて、天王さんと呼ばれるようになった。毎年七月十四日には、無病息災を願って祭祀が続けられている。
皇大神宮
本社は伊勢の内宮、祭神は、天照坐大御神である。
山の神
山を守り司る山の精と信じられ、秋の収穫後は近くの山に入り、春になると山を下って田畑の神になるといわれている。山の神様は女の神様で農業は大変熱心であるが、気の荒い神であるため、神前に大きな男性のシンボルを飾り慰めているようである。毎年一月七日には豊穣を祈る奉納が行なわれる。
その山の(之)神の祠の脇には例のモノが飾られていた。
神瀬多種神祠を背にすると向こうの山の一部は浅間山とのこと。
また、多種神祠の先には眼鏡橋の下へと通じる猿木坂の入口がある。以前訪れた時は「(寸断中のため通行不可)」となっていた。
そろそろお昼時なので、猿木坂はあとの楽しみにとっておき、一時熊野古道を離れた。右側の道を進むと
神瀬第三踏切で線路を越えた。
線路沿いに折り返してしばらく進むと
茶畑の間を上り始めた。
途中に祠。地元の方に聞いたら「庚申」とのこと、しかし青面金剛像は見当たらなかったのだが?
こんな場所にたどり着くと「神瀬の未来を語る会」の方々が新茶とともに昼食を準備して待っていてくれた。
私は昼食を終えると周辺を散策。昼食をとった場所より上方へと続く道があったので先へ進むと突き当りには
不動堂があった。
不動を後にして坂道を下ると右手に祠が見えたのでお参り。祠の前には立派な台(石造りの案?)が準備されていた。後で地元の方に尋ねたところ「神瀬の地にい大いに貢献されたナカニシウジノカミがまつられている」とのことだった。
ナカニシウジノカミは神瀬全域をこんな風に見渡している。
神瀬では茶農家が共同で「神瀬共同茶工場」を運営していて、ここ2日間が作業日となっているため茶畑では忙しく機械がお茶を摘んでいた。
遠望だが、茶摘み前と後の相違が一目瞭然である。
新茶畑を後にすると神瀬共同茶工場を見学させていただいた。
入口の近くには
お茶の葉を運ぶベルトコンベアの入口があった。ここに
お茶の葉を納めれば、あとは全自動で製茶されるそうだ。
各工程で全自動の機械が休むこと無く動いていた。
こちらはガスバーナー。
熱気ムンムンで熱い、暑い。
その後、何種類かの機械が・・・(自由に見学していたので詳細は?)
こちらの複雑な動きから想像する「手揉み」を再現している工程だろう。
こんな所に機械からこぼれ出た茶の粉が積み上げられていた。(誰か触った?)
神瀬共同茶工場を後にして踏切を渡り返すと道路脇にはプロパンガスのボンベを運んできた車が停っていた。ここ2日で6トンの生葉を加工して1トン強のお茶に仕上げるとのことだったのでかなりの燃料が必要なのだろう。
そして、やっと待望の猿木坂入口へ戻ってきた。
以前は歩けなかった古道に足を踏み入れると何とも感慨深かった。
斜面には竹林が続き、こんな太い!
下りきると沢筋に出て、丸太の橋を渡った。
この先に、待望の眼鏡橋を望むことができた。
眼鏡になるようにパチリ。
この近くにあった説明書きはこちら。
眼鏡橋
この橋は、明治四十年に建築され、かつては国道として人々の往来があった。現在は町道となり、ふたつあった橋のアーチのひとつは線路敷設のため埋没し今はひとつだけとなっている。
橋脚部を眺めるとレンガアーチが見える。迫石も美しくレンガは、*イギリス積み。扁額には「神瀬橋」とある。
*イギリス積み…レンガを長手たけの段、小口だけの段と 一段おきに交互に積む方法。
沢筋を離れて坂道を上ると眼鏡橋からの道路と合流し
一瞬、国道42号に出る。そこで見かけるのはこの三猿。
道標に従って国道を離れると以前はこの場所に建っていた家屋が倒されて更地になっていた。
すぐに国道脇へ戻ると歩道を歩いて次の路地を右へ入った。
そこには神瀬第四踏切があり、その周囲にも
多数のお茶が育てられていた。
神瀬第四踏切の先左側には殿様井戸への入口がある。こちらにもフェンスが張られている。格子の扉をしっかりと閉じると・・・
こちらが殿様井戸。
殿様井戸
木々に囲まれ、涼しいこの井戸は年中涸れることが無く、江戸の時代、殿様が重鎮とお忍びでこの神瀬の地に鷹狩りに来た時に必ず駐屯、休憩を取ったため「殿様井戸」と呼ばれるようになった。往時、熊野街道の旅人達は、殿様が涼しく居心地の良いこの井戸に長いしたため困ったという。
殿様井戸を後にすると枯れている沢を渡って向かい側の斜面を上る。(私は沢を渡らずに迷った?ことある。)
道なりに進むとこの案内板があり、道から少しだけ外れた奥に小さな墓碑が建っている。
地道を離れてアスファルト舗装された道へ戻ると真っ直ぐに・・・。途中、左手に見える茶畑の片隅には茶摘み用の機械が置かれていた。こんな格好をしているんだ!
さらに進むと2つ目の「熊野古道行き倒れ墓碑」の案内板。踏み跡も分からない状態でこの奥にある墓碑は
猪等に倒され、割れているそうだ。それを復元した写真がこちら。
こちらの切通しを進むと
右手にはこんな光景。
切通しを抜けるとこんな風景が待っていてくれる。
浅間踏切を渡り
道なりに右方向へ進むと左下には国道42号が走っている。
国道に合流するや否や国道を離れると家並みのなかの古道をてくてく。こんなところで立ち止まっているのは? 道標を見ているのだった。
さらに進行方向の左側、この先は渡し場へ通じていたとのこと。
古道を先へ進むと旧旅館阿波屋。案内人の筒井さんはこちらで酒を酌み交わしたことがあるそうだ。
鬼瓦も特徴があり、各所に七福神が配置されているとのこと。
旧旅館阿波屋(あわや)
この旅館は、古くから旅人宿で昔はわらぶきの二階建てであった。東西の屋根の鬼瓦には七福神があしらわれている。かつてはその向かいに、いろは屋、小松屋などの旅館が軒をならべていた。また、この下の宮川には川を渡るための渡船場があり、荷を積下ろす人々の利用や、川が荒れたときは通行人の待機場所となった。
続いては宝泉寺参道入口付近に建つ常夜燈と六字名号碑。
この碑の前には次の説明書きがある。
宝泉寺
この寺の別堂(報恩堂)には信濃の善光寺の阿弥陀如来が祀られている。
明治九年十二月、信州善光寺の出開帳の一行が下楠村にさしかかったとき、伊勢暴動(百姓一揆)に遭遇した。やむなく一行は本尊入りの厨子を当寺に預け信州に帰った。明治十五年、住職は善光寺に赴き回向(えこう)料を納め本尊を別堂にお祀りした。善光寺から発せられたその約定書が当寺に保管されてる。
六字名号(南無阿弥陀仏)を記した弘化三年(1846)の大きな碑と天明元年(1780)の銘のある常夜灯。
六字名号碑を横から見るとこんな感じ。よく倒れずに二百年近くも建っているものだ。
ご住職からお話を伺えるとのことで、宝泉寺への参道を進んだ。
こちらはJR紀勢本線の線路を越えた先にある。
こちらが報恩堂で、鳥居が付いた神輿型の厨子がまつられていた。山口住職により長野の善光寺との関係等が説明された。
その関係性を示すもののひとつとして報恩堂の瓦にある立葵の寺紋も紹介された。
山口住職にお礼を述べると宝泉寺を後にして、遮断機も警報機もない踏切を渡った。
以上、旧川添郵便局前で本日のウォークは終了となった。
こちらの建物の屋根を見ると
左側の鬼瓦に「添川」の文字が読み取れる。
車でJR栃原駅まで送ってもらい、帰途についた。
独りで歩いていたら歩きながらのおにぎりとなるので、たまにはお昼をゆっくりと楽しむウォークもいいものだ。今度は宝泉寺・善光寺報恩堂 春まつりに訪れてみたい!
【 20160503 の記録 】
- 今年も花開道の案山子にご挨拶(伊勢市津村町)
- 野原公園の藤棚、「東作さんと藤まつり」の朝(大紀町野原)
- 宮川流域案内人と大台のお茶を楽しむウォーク