2016年06月18日(土) 河崎環濠痕跡巡りツアー(伊勢市河崎) (徒歩)
先日、ひとりで巡ろうとして断念した河崎の環濠を巡るツアーが実施された。
「河崎環濠痕跡巡りツアー」
日 時: 2016年6月18日(土)10時00分〜 正午頃
集合場所: 河邊七種神社社務所(三重県伊勢市河崎2丁目19の29番地)
参加条件: なし
申 込: 不要
参 加 費: 古文書の会」の会員(参加者)は不要
会員以外は運営資金の補助を希望(ワンコイン程度)
【参考】
- 河崎環濠跡を巡り始めたものの・・・断念 2016年05月08日
断念の記事でも紹介したが、このツアーが実施される契機となったのはこの新聞記事、さらには河邊七種神社で発見された文書や古地図である。
写真では読み難かったのでこちらに引用させていただいた。
中日新聞 ふるさと再発見
河崎環濠痕跡巡り
昨年、私の住んでいる伊勢市河崎で大きな発見があった。河辺七種神社の社務所改築の際、江戸時代からの文書や絵図が大量に出て来たのである。そして先日、ようやく住民を中心に保存、解読をしていこうと保存会が発足することになった。私もそれに参加したのだが、その史料の内容の豊富さと参加する人の意識の高さに圧倒されるほどのものだった。
後日、保存会で同席した菓匠播田屋の東出晴夫さんに「あんたに教えておきたいことがあるから付いてきて」と誘われた。あまり気乗りしないまま付いていくと、川沿いのある場所で「ここが何か分かるか」と聞かれた。
そこは堤防がまっすぐに伸び、並行して側溝があるのだが、そこから側溝がカーブを描き、道が膨らんだようになっているのだ。「ここが船回しの場所や。勢田川ほ狭いから、船はここで方向転換をしたんや」と東出さん。何度も見ていた場所なのに、一度たりとも疑問をもったことのなかった私はただ感心するしかなかった。
私の反応を見て「環濠の跡も見とこうか。道しかないけどな」と再び歩き始めた。しばらくして、ある新築の家の後ろに間隙を見つけた。近づいてのぞくと「あった!」。環濠(集落を囲む堀のこと)の一部が残っていたのだ。皮肉なことに家を建て直したことで見えるようになったらしい。
河崎は中世より環濠のある町であった。私たちは興奮して、もっと何かがあるかもしれないと、環濠跡の道をたどった。やはり環濠の痕跡が次々と出て来た。環濠に沿って曲線を描いた土塀、切り取られた環濠の石積みなど、たくさん残っていたのだ。
また、環濠から外れるが、一メートルほど土台の高い一軒の家が興味深かった。「ここは昔瓦屋で、火をたくさん使うから環濠内にはおれんかったんや。この一帯は田んぼやったから高くするしかなかったんやろう」と、東出さんは幼い頃の記憶とともに教えてくれた。
そのとき私は気付かされたのである。古くから残されているものには、ちゃんと理由があるということを。その後、環濠の高さのままの石積みを見つけたり、みそ蔵のあった場所を教えてもらったり、天神さんのあった場所を探したりして、怪しい二人組の環濠痕跡巡りは終わった。
私も河崎に暮らすようになってから、一通り河崎の歴史は学んだつもりである。ところが今回、それが机上の知識でしかないことを痛感させられた。
やはり古くからあるものにはすべて理由や意味があったのである。そして、それを学ぶことこそが歴史なのではないか。単に過去の出来事や名称を覚えることでも、ノスタルジイを誘うためのものでもないはずだ。
もうそろそろ英雄や大金持ちが作ってきた歴史以上に、その他大勢の先人たちの知恵と努力で築き上げてきた歴史に目を向ける時が来ているのではないだろうか。(奥村薫=古書店主・伊勢市)【引用】 中日新聞より
そしてこの文章の筆者は河崎にある古本屋ぽらんの奥村さん。私が河邊七種神社の社務所で実施されている「古文書の会」に参加できているのは実は奥村さんのおかげなのだ。個人的にはそんな感情とともにこの文章を読んでいると河崎はとても身近に感じられ、もっともっと知りたくなってくる。
私は「古本屋ぽらん」さんを訪れたのは、お伊勢さん125社についてさらに知りたいと「神宮要綱」なる本を探していいたからだった。結局「ぽらん」さんにも無かったのだが、その当時伊勢河崎商人館で実施されていた古文書勉強会にお誘いいただき、その時無給で講師を担当してくださった千枝さん(現、中京大学学芸員)や松本さんをはじめとする河崎の方々・・・多数の方と知り合いとなり、現在に至っている。なんということだろう!
【参考】
- 古本屋ぽらん(河崎) 2011年01月09日
またまた、前振りが長くなってしまったが、河崎に思い入れの強い私にとって前回断念した環濠痕跡巡りは待望のツアーだ。
こちらの鳥居をくぐり境内へ入ると手水を受けた後
集合場所である社務所前へ向かった。
受付を済ませると3枚の資料(地図)が手渡された。こちらが河崎之絵図 元禄十四年十一月で
伊勢河崎商人館に展示されているものの写しだった。
定刻になると今回のガイドであり河崎を知り尽くした東出晴夫さんの挨拶でツアーが開始された。
さあ、出発!
河邊七種神社から河崎本通りへ出ると右方向へ
次の信号を渡ると左へ折れて
勢田川に架かる中橋の手前で一時停止。
川を背にしてこの下を覗くと
あんな所に扉があった。昔は川と直結していたのだろう。
勢田川の左岸を遡ると
こちらで立ち止まった。これは?
これは船を係留するための石とのこと。ロープを結びつけるのだろうか? また、この形状にも理由があるのだろうか?
さらにその先のお宅の塀には石垣が繰り抜かれていた跡がある。
こちらだ。
南新橋へたどり着くと屋根瓦と側溝に注目。
この辺りは川が入り込んでいて、船が係留されていたのでは?とも・・・。石垣から石が飛び出す箇所が何箇所も見られた。これは?
さらにこの瓦には「中西甚兵衛」の名が刻されていた。また、文字が二重になっている箇所があるのだがこれはいかなる理由だろう?
続いては奥野家土蔵(鹿海屋商店の蔵)。こちらの扉は現在の道路よりも下の位置にあった。
土蔵のこて絵にも注目。
これだ。
こちらは新聞の記事で紹介されていた「船回しの場所」。川に並行した側溝がここでいきなり右側へ膨らんでいる。
その先へ進み振り返るとここは公園となっている。伊勢市所有で公園となっているそうだ。
こちらはいつも気になっていたレンガ作りの倉庫。こちらは砂糖問屋であった榎木商店のレンガ蔵、石油を扱っていたため油蔵とも呼ばれていたとのこと。こちらの娘さんが宮後の丸山石油に嫁いだそうな。
さらに進むと
清浄坊橋付近にたどり着いた。昔、この辺りでは女の子が裸で行水していたそうだ。
また、清浄坊橋を背にしたこの区画。ここも伊勢市所有で公園となっていて、この下には暗渠となった清川が流れているそうだ。
これがその証か。
ここは河崎本通りの入口付近、ここから本格的に河崎環濠巡りが開始された。この付近に環濠と清川が接続されるポイントとある。河崎の環濠は本通りから離れて斜め方向に民家の間、下を通っているそうだ。
我々は河崎本通り北方向へ進むと庚申堂のところで立ち止まった。絵図によるとこの付近に門があったことになる。
河崎本通りを離れて庚申堂の脇を進むと
こちらの敷地へ・・・(単独ではなかなか入っていけない場所だ)
敷地の奥にあるフェンスと建物の間からその先を覗くと
新聞記事の「あった!」の場面。まさにその言葉がピッタリの場所、ここは環濠の痕跡ではなく、まさに環濠だった。
ワクワク感を感じながらさらに進むとこんな立派な塀を右手に見ながら・・・(こちらにはボタン園があったそうだ。)
その塀が途切れた先に、暗渠となっている環濠が続いている。
我々は少し寄り道の遠回り。こちらには山田羽書の御用金取引会所があったそうだ。
さらにこの辺りまで御屋敷(山田奉行所)跡だったらしい。
御屋敷跡付近を背にした路地を進むとこの場所へたどり着いた。ここも新聞記事で紹介されていた昔瓦屋だったところ。環濠の外側にあるが環濠内と同等の高さまで嵩上げされている。
瓦屋付近を跡にするとボタン園の塀から続いている環濠跡へ移動した。この付近でも石積みが見受けられる。環濠と意識すればそれらしく見えてくるから不思議だ。
さらに痕跡をたどりながら進むとこの十字路、右方向の先には河崎本通りが並行し
左側の先には八間道路が並行して走っている。
この角にも小さな痕跡が残されていた。
まだまだ続く。こんな石積みはどこにでもあると言っても
過言ではないほどだ。
この先は興味深い。
道路は左へ折れているが、環濠は真っ直ぐ走り、その先で左
右へとクランクになっていたのだった。
民家の間の細い空間へ進むと、なんてことだろう。こんな所に石積みがあり、その面は先ほどの道路の延長線上にあった。
視線を反対方向へ振るとその先は? しかしながら先ほど説明したようにこの先は左右へとクランクしている。
その証拠は先ほどの道路へ戻ってわかった。(実は千枝さんに教えてもらったのだが)ここに見える石積みは道路に沿うとともに右方向へも続いていた。
この辺りも大きな蓋が掛けられている場所は暗渠でも痕跡を見つけやすい。
右手側に駐車場が見えると
石積みとコンクリート製の擬石L型擁壁の接続線があった。
ここには蔵が建ち、畳工場があった?
そして、こちらが「河崎の環濠遺跡」説明板がある有名な場所。
環濠の中からパチリ、
パチリ。
これから向かい方向へ・・・
昔は車が置かれている辺りに人力車が待機していて、河崎の若旦那は遊びに行く時に利用していた。さらに、遊びに出ると一週間でも戻らなかったとか!
説明板付近を背にすると河邊七種神社方向へ進んでから振り返ってパチリ。この環濠は歩道をつけるために暗渠にされるところだったが、このように環濠の幅は狭くなったものの環濠と分かる姿が残されている。
河邊七種神社へ戻ると小休止。
小休止を終えると続いては
こちらの石橋の下にある環濠を追いかけた。私が断念し先なのでとても興味深かった。
石橋を背にすると境内の周囲に積まれた石垣に沿って・・・
細い路地を抜け出ると
右方向へ進むが、環濠は暗渠になりこの道路と交差して有緝小学校のグランド方向へ進んでいるそうだ。
そして、こちらが河崎環濠痕跡のようだ。
道なりにカクカクと進むと
この倉庫の前で解説があった。新聞記事にもあった「みそ蔵」がこちらのようで、
この大きな扉の先には大きなみそ樽が置かれていたとのこと。東出さんの子供の頃の思い出・・・。
こちらを跡にすると
突き当たる。
このグレーチングは「いかにも」と思わせるほどの河崎環濠(痕跡)だ。
この先にある家の間を覗くと・・・
さらに左側から回りこむと
こんな石積みが続いていた。
ここにも・・・。
この先は・・? 突き当りは昔お墓で
突き当たりの右奥にはいくら根元から切っても生えてくる不死身なしきみが立っている
河崎本通りまで戻ると
伊勢河崎商人館の前を過ぎて
北新橋(勢田川)を渡った。
続いては勢田川右岸の環濠痕跡を巡ることになった。
ここにも巨大なグレーチング。水の流れの底は深かった。
途中でお寺跡に立ち寄ってから
中橋へ通じる道路を横切るとこの路地へ入った。
土蔵のこて絵には魅了される。
こちらはかなり傷みが激しい。
突き当たりを右側へ回りこむと
左側のこの路地を・・・ (私は歩いたことがない場所に戸惑い、どこにいるのかわからなくなった。)
こちらは南側庚申。この先も道なりに進むと
この場所に出た。ここにも門があったそうだ。
南方向には
河崎南側公民館前に建つ道標が望めた。
南新橋で勢田川を渡ると
河崎本街道を歩いた。こちらは
村田家。
その敷地の角に建つ
こちらの道標は村田家が建立したそうだ。
以上で、河崎環濠痕跡巡りツアーは終了となった。
今回のめぐりで環濠の位置関係は何となく把握することができた。しかしながら盛りだくさんの内容でお腹いっぱいになり過ぎて消化しきれない状態にある。知ることにより疑問点も増えているので今後も2回、3回の河崎環濠痕跡巡りツアーを期待したい。
奥村さんの言葉「やはり古くからあるものにはすべて理由や意味があったのである。そして、それを学ぶことこそが歴史なのではないか。」で考えれば、まだまだ歴史を知ったことになっていない。もっともっと理由や意味を知りたい。
河崎環濠痕跡巡りツアー、盛りだくさんですね!!!?
これでは、2回目、3回めも開催してもらわないとネ!!
例えば、2回目は勢田川右岸を完全制覇!!とか
三回目は勢田川左岸をとか、時間をもっとかけて
細分化して巡るとかネ(へへ)。
庚申堂のところでは、はっきりとした環濠が残っているのが
すばらしいですね。
たかっち
たかっちさん、こんばんは!
> 河崎環濠痕跡巡りツアー、盛りだくさんですね!!!?
ほんとにお腹いっぱいになり過ぎて消化しきれません。
提案されているように区域を分割してじっくり巡るのもいいですね。
今度提案してみます。
> 庚申堂のところでは、はっきりとした環濠が残っているのがすばらしいですね。
そうなんですよ。ほんと驚きました。
暗渠に蓋が掛けられているところは片っ端に取っ払ってみたくなります。
>
一度巡ったので次回は独りでも何とか巡ることはできますが、地元民ではないので不審者と間違えられそうで不安ではあります。(笑)