人柱となった籐八翁の藤八頌徳碑(松阪市六根町)

2015年05月02日(土) 人柱となった籐八翁の藤八頌徳碑(松阪市六根町) (車、徒歩)

お伊勢さん125社まいり 斎宮めぐり にて神服織機殿神社から神麻続機殿神社へ向かう際、いつもとは別のルートを歩いたところ魚見神社から神麻続機殿神社へと続く道の先に木が生い茂った場所を見つけた。

 

神麻続機殿神社の社叢(松阪市井口中町)と藤八頌徳碑(松阪市六根町)

神麻続機殿神社の社叢(松阪市井口中町)と藤八頌徳碑(松阪市六根町)

 

その場所へたどり着くと木の前には説明板が建てられていた。

藤八頌徳碑付近(松阪市六根町)

藤八頌徳碑付近(松阪市六根町)

 

その説明板はこちらで、

籐八翁の人柱と由来の説明板(松阪市六根町)

籐八翁の人柱と由来の説明板(松阪市六根町)

 

「籐八翁の人柱と由来」とのタイトルが付けられていた。

籐八翁の人柱と由来の説明板(松阪市六根町)

籐八翁の人柱と由来の説明板(松阪市六根町)

 

籐八翁の人柱と由来
「旧堤防の実態と水害」
櫛田川は現在、国の一級河川に指定されているが。江戸時代後期の文政年間(1818〜1830)には、魚見の上流で通称中山の付近は湾曲が甚だしいため、水勢をまとめに受けて決壊することが多く、村民は常に不安に襲われていた。
「人柱の申し出と実行」
文政五年(1822)の冬、中山堤防の改修が始まった時、魚見の籐八翁はどうしたらこの災害を除き、郷土の人たちを安穏に住まわせることができるのかと心を痛めていた。ふと念頭に浮かんだのは、人柱を建てれば堤防の決壊を防げるという伝説であった。そこで、自ら進んで人柱となることを申し出て、決壊しやすい堤防のところへ生き埋めとなった。
この時籐八翁は、普通の棺桶より大きな箱を作らせ、その中に食糧と鉦(かね)と撞木(しゅもく)を共に入れ、この鉦の音が絶えた時、自分が死んだものと思えと言い残していった。身内の人や村民たちは、それから毎日その堤に来て籐八翁の冥福を祈っていたが、三日目に鉦の音が聞こえなくなった。その命日が文政六年二月六日であった。
「遺品の発掘と実証」
それから水害もなくなり、村民も安心して仕事に就くことができるようになった。籐八翁を郷土魚見の守護神として崇めた。ところが昭和十二年四月に県が櫛田川堤防の大改修をした時、生き埋めにしたという中山堤防のところから、籐八翁の遺骨と人柱の時に共に入れた鉦が発掘され、籐八翁の事跡が単なる伝説ではなく、事実であったことが実証された。発掘された遺骨と鉦を菩提寺へ納めたが、昭和二十年二月の火災で本堂が全焼し、遺品すべてを焼却した。
「頌徳碑と表示板の建設」
その後、松阪市へ碑の建設を依頼し、県道に沿った現在地に「籐八翁頌徳碑」が昭和四十四年二月六日建設された。
今回、この地域が圃場整備に伴って開発されたので、人柱の所在地と由来を表示板に記載し籐八翁の郷土愛を後世に伝えていくため、魚見町郷土史委員により平成十年六月に表示板を建設することになった。

 

説明板に記された地図によると人柱原地はこの方向のはずだった。今は圃場整備されてしまったのだろう。

藤八頌徳碑(松阪市六根町)前から望む人柱原地方向(松阪市魚見町)

藤八頌徳碑(松阪市六根町)前から望む人柱原地方向(松阪市魚見町)

 

なお、説明板の右奥には「藤八頌徳碑」。

藤八頌徳碑(松阪市六根町)

藤八頌徳碑(松阪市六根町)

 

伊勢の宮川でも同様の話があることを思い出しながらこの場を後にした。

藤八頌徳碑付近(松阪市六根町)

藤八頌徳碑付近(松阪市六根町)

 

【参考】

こんな場所です。

宮川の「松井孫右衛門人柱堤(浅間堤)」(伊勢市中島)

宮川の「松井孫右衛門人柱堤(浅間堤)」(伊勢市中島)

 

【 20150502 の記録 】

 

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