2015年11月21日(土) 於喜佐稲荷大明神ほか(伊勢市御薗町高向) (徒歩)
お伊勢さん125社である清野井庭神社へ向かうためうろうろと寄り道しながら伊勢市御薗町付近を散策していると今まで気付かなかった鳥居を見つけた。
自宅周辺の神社は巡ったつもりでもまだまだ知らないところが多いのかも知れない。迷わずに鳥居をくぐると
二基目の鳥居が建て替えられていた。さらに進むと
鳥居が途切れて路地が交差していた。路地を横切ると目の前にはさらに鳥居が続いていた。
左手に建つ社務所を通り過ぎて最後の鳥居を抜けると右手に手水舎。心身を清めてから
正面に建つ社殿へ入った。お参り。見上げると二面の扁額が掛けられ、そこには「於喜佐稲荷大明神」と記されていた。ここで初めてこちらの神社の名前を知った。
お稲荷さんだから稲荷講の対象となっていて、柱には数枚の寒中御見舞札が貼られていた。今年に貼られた札は、「河崎吉家講」と「京町稲荷講奉賛会」のものだった。
帰宅後に御薗村誌(伊勢市に合併する前に発行された)を確認したところ次のように記されていた。(読んだつもりが・・・)
於喜佐稲荷社(高向区・字下千田五五一番地)
当社の創祀年代、由緒は不詳であるが、以前は字西新出にあった山神社の鎮座地に奉祭されていたが、明治の中期に、山神社を高向大社境内へ移遷の際に、大社西側の地へ奉遷したという。その後、同地にあって水害などの災厄に度々遭遇したことから、地区の有志の人々が相計り、現在地への遷社を執行し、明治三十三年旧八月十一日をもって遷座式典を挙行した。爾来、五十周年を迎えた昭和二十三年九月十一日には、五十年祭式典を執行した。区長総代・稲荷総代また有志の人々が相談して、伏見本社から御分霊を勧請した。これ以前の昭和十七年十月十二日には、本社伏見稲荷社の境内地の一隅に、於喜佐稲荷大明神の鳥居一基及び玉垣を建立奉納した。時の寄進者は曾野与三松・辻村斉松・総代中村与吉・中村藤七、世話人辻村斉吉らであった。伏見稲荷本社へ参詣の節に奉拝する人々も多いといわれる。
戦後の五十年祭の際には、青年団が諸種の演芸余興を境内地で催した。敗戦間もなく娯楽のとぼしいときであったが、区民人心の活性化を大いに高揚し、参詣者もすごぶる多かった。秋季の稲荷社祭礼は、これ以来の伝統をもつものとして今日に受け継がれている。なお、当稲荷社の境内地には、矢津奈賀稲荷大明神(寄進者辻村斉吉)、矢津尾稲荷大明神(寄進者中村与吉・中村藤七)が祭祀されており、それぞれ祠や鳥居が寄進され建っている。於喜佐稲荷社のお堂内には奉納額が揚げられている・・・(後略)
於喜佐稲荷大明神を後にすると手水舎の奥に建つ鳥居へ移動した。こちらだ。
こちらにもお参り。扁額を確認すると「矢津尾稲荷大明神」。こちらもお稲荷さん。
矢津尾稲荷大明神を後にすると境内の奥へ・・・。
境内の隅にも鳥居が建ち列んでいた。
その先には、こちらもお稲荷さんだった。
扁額を確認したところ一部の劣化が激しく、「矢津奈?稲荷大明神」。「?」の部分が読めなかった。(ところが帰宅後に御薗村誌を確認して「?」は「賀」であることが分かった。)
境内をぐるりと一周し
参道を戻ると於喜佐稲荷大明神を後にし、清野井庭神社へ向かった。
【 20151121AM の記録 】
- 先週に続き、紅葉したイチョウ(王中島公民館)
- 御薗神社の隠された?山神さん(伊勢市御薗町王中島)
- 於喜佐稲荷大明神ほか(伊勢市御薗町高向)
- 清野井庭神社(豊受大神宮摂社)
- 思いがけない出会い、草奈伎神社・大間国生神社(共に豊受大神宮摂社)
- 修繕が大詰めの清川稲荷大明神(今社、伊勢市宮町)
- 姿を消した大庭の隅の丸っぽい石(外宮)
- 外宮勾玉池と茜社(伊勢市豊川町)