2017年07月08日(土) 菅島のプチぶらり(鳥羽市) (徒歩)
初めてしろんご祭を体感した菅島。菅島に訪れたのも初めてだったので右も左もわからない状態で祭の前後に島内を少しだけ巡った。(やはり離島は船便の出発時刻に行動が左右されるので計画的に訪れた方が良さそうだ。)
臨時便の分で佐田浜(鳥羽)から菅島に到着すると乗り場近くで大漁旗を掲げた船を見かけた。
しろんご祭が行われるしろんご浜と乗り場の位置関係だけは何となくわかっていたので、船を降りた多数の人々の流れとともにその方向へ何となく歩き始めた。
海女の姿をした子どもが窓から顔を見せていた漁村センターの前を通ると
突き当りでこの幟旗を目にした。ここから漁港を左に巻くように進むと
対岸からこの船をパチリ。
近くに網の目のような光を受けている船を見かけた。ゆらゆらの光の網の目は幻想的だった。
さらに進むと左側には積み上げられたテトラポット、右側には褶曲が激しい岩が・・。菅島や中央構造体の南に位置するそうでその影響を受けているのだろう。
この先で海から伸びるレールを発見。それにしても海底深くまでつながっているように感じてしまう。
このレールを過ぎると海岸沿いの道は坂道となる。
坂道に差し掛かる前に海上を眺めると海女を乗せた漁船が右方向へ急いでいた。しろんご浜へ向かうのだろう。
ここには「車両通行止」の警告板が立てられていた。これは島民向けだろうから、普段は問題なく車も通れるのだろう。と言っても島民しか車を運転しないだろうが。
坂道を上るとかなり背の高い切り通しとなっていた。(「以前は海岸線を歩いてしろんご浜へ行った。」と帰りの定期船を待っている時に地元の方に伺った。車を使うようになってからこのルートが作られたのか?)
切り通しを過ぎて坂道を進むとこちらにたどり着く。車両通行止だが、私を追い越していった軽トラックには子ども海女ちゃんを乗せていた。みんな楽しそうに・・・。車はこの先なのだろうが、
歩行者はここから浜へと下れるようだ。案内に従って坂道を下った。
するとその先には素晴らしい浜が待っていてくれた。
この後、しろんご祭を体感し、それを終えると「灯台へ行こう!」となった。
【参考】
- 初めて体感した しろんご祭(菅島) 2017年07月08日
菅島灯台へのルートはわからなかったが何となく方向だけは把握していたので、先ほど祭典が斎行された白髭神社への階段を登り、突き当りを右へ行こうと決めた。
階段を登り切ると左側に鎮座する白髯神社では後片付けの真っ最中だった。邪魔にならないように控えめにお参り。
白髭神社を背にすると道なりに進んだ。すると程なくこの分岐に到着した。道標には菅島灯台の文字があり迷うことはなさそうだ。あと650m。
あと500m。灯台がどんどん近づいて来た。
こんな雰囲気の歩道も歩くと
左方向を見ると雲に浮かぶような神島が望めた。これだけでも満足だ。それにしても神島が近い。
緑の世界に変化すると
こんな道標。灯台へはここを左折。
わかりにくいと思ったら、こんなに明確な案内板があった。この案内板に従うと途中で分岐(後で下った菅谷浜への分岐)を過ぎると前方に空がポッカリと。
坂を登り切って左へ下るとこんな風景となる。前方には菅島灯台とその右側には神島。
灯台に近づくとこんな説明板が立っていた。
菅島灯台
この付近の海は、江戸時代から廻船の重要な航路であったが、数多くの岩礁があり、遭難する船が絶えませんでした。
そのため、この地には早くから「かがり火」が設けられてきました。
この「かがり火」が現在の菅島灯台の前身で、我国灯台の父と言われる英人リチャード・ヘンリー・ブラントンの指導により建設されました。
明治6年7月1日に点灯し、洋式灯台としては最も初期のもので、工事用のレンガ作りから始められました。
この灯台はレンガ作りとしては、我国最古のもので、当時の職員宿舎は現在重要文化財として、犬山の「明治村」に移築保存されております。(中略)
管理事務所 第四管区海上保安本部 鳥羽航路標識事務所
この灯台が、百年以上の歴史の中で数多くの船人の命と貴重な財貨を人知れず救ってきたであろうことを想うとき、これからも夜毎美しい光を沖ゆく船に投げ掛け続けるよう祈念するものであります。
社団法人 燈光会
なお、灯台の一階でいただいた鳥羽海上保安部の説明文で補足すると次の通り。
江戸時代には、酒田から下関、大阪を経由して江戸へ海路で食糧を運搬する方法がとられましたが・・・(中略)
明治初期にフランス人やイギリス人(政府が雇用)の指導により西洋式の灯台建設が始まり、この灯台もイギリス人(リチャード・ヘンリー・ブラントン)の設計により明治5年に着工、国産のレンガ(現在の志摩市渡鹿野の瓦屋・竹内仙太郎製作)を使用して、明治6年7月1日に点灯しました。ヨーロッパの古城を思わせる姿で、現存する現役のレンガ造りの灯台としては、我が国最古のものです。(平成21年近代化産業遺産、平成22年登録有形文化財)
灯台の入口を入ると人ひとりが歩ける幅の階段が壁面に沿って続いていた。
階段を登り、途中で見下ろすとこんな感じ。壁伝いの階段を登り切るとフロアーとなっていてこかから先は傾斜が急な階段が真っ直ぐに伸びている。その階段を登り切ると灯台の命である光と発する場所に出る。そのランプ(今はLEDになっていて、12Vで点灯する。)を背に開けられている扉口から外へ出ると
視界が一気に広がった。
360°を何周もしてしまった。
この場には鳥羽のボランティアガイドの面々も来ていて、その中には知人がいた。この後、菅島神社を訪れようと思っていたのでガイドの方に尋ねると「船乗り場の近くですよ」と教えて頂いた。
この狭いハッチから急な階段を下りると
窓越しの風景を眺めながら休憩し一階へ戻った。
するとレンガについて説明を受けている親子連れがいたので私もその仲間にいれてもらった。
このレンガがレンガ造りの灯台の予備として残されているもののようだ。レンガの表面に陽刻されている^と十を組み合わせた記号を見るとあることを思い出した。
それは一週間前に上長屋神社で見かけた常夜燈に刻されていた記号だ。
【参考】 茅の輪を目指してのぶらぶら 2017年07月02日
この記号にはどんな意味があるのだろうか? また、疑問が増えてしまった。
灯台から外に出ると
先に確認した説明板の足元に古いレンガが残されていることに気づいた。
これで菅島灯台を後にすると
先ほどの分岐まで戻り、菅谷浜の案内に従って坂道を下った。前方には神島、
坂の途中には黄色い花が迎えてくれた。
水辺まで下ると神島を眺めてパチリ。
さらにパチリ。海底でつながっているのか?
菅谷浜に立つと左方向に見たことのある風景を見た。それはしろんご祭を前にしろんご浜をうろうろしていて知らぬ間にこちらの浜まで来ていたからだった。
菅谷浜からしろんご浜を分ける大きな岩の付近で昼食のおにぎりを頬張ると
しろんご祭が行われたしろんご浜では後片付けが進められていた。働いている方々を見ながら食事とは心苦しかったが、とにかくパクパク。波の音を聞きながらの食事を終えると
しろんご浜へ移動した。するとテントはすべてたたまれ、お祭りの名残はなくなっていた。
完全にしろんご祭が終わった浜を後にすると例の「しろんご浜」の案内板まで坂道を登るとこの道に出た。あとは道なりに戻るだけ。のはずだが行きには気づかなかったこんな階段を見つけてしまった。階段があるということは誰かが登っている。この先には何があるのだろう? この疑問は登るしか解決できない。
暑さを感じながらも一歩々々階段を進むとその上には、こちらがまつられていた。片隅には安永四年と刻されていた。
階段を下り元の道を歩いていると後ろから軽トラックが追い越して行った。多数のテーブルや「しろんご祭」の幟旗を乗せていた。「お疲れ様!」
菅島漁港へ到着するとこれはアンカーなのか? 整然と並べられた姿に感動を覚えるほどにパチリ。
これは干物用のスペース?
漁港を後にすると細い路地へ入り、菅島神社へ向かった。
【参考】
手水を受けるとその先、右側には亀石がまつられ、
さらにはつがいの鮑貝が供えられている。亀石には子孫繁栄、長寿をつがいの鮑貝には縁結びのご利益があるとされている。
こちらの鳥居の先には拝殿、さらに
拝殿の奥に本殿。
こちらでも靴を脱いで座してのお参り。ここでは座してお参りしてみた。慣れないことだが、お参りするにはいいスタイルだ。しばし佇んでしまう。
菅島神社を後にすると参道に立てられた大きな幟旗の間を通り抜けて漁港へ戻った。
その後小学校の前の坂道を歩き、うろうろしていたら大山へと続く道を見つけた。大山については下調べもなく荒れ具合もわからないので、今日のところは船乗り場へ戻って次の船を待つことにした。
船乗り場へ戻る途中で菅島小学校の校舎を眺めるとあることに気づいた。もうお分かりだろう。
時間があったので沖ノ島へと架かる橋の上からパチリ。
パチリ。
食品などを売っている店は見かけなかった。もっと歩けば見つけられるのか?
改めて訪れよう、菅島。