2015年11月15日(日) 宮川流域案内人とともに『都に続く縁の道を歩く』〜さあ!まいこましてこかぁ〜パート3 (車、徒歩)
三重県度会郡大紀町の錦から奈良の都までを歩く、そんな壮大な企画を私が知ったのはすでにパート2が終了してからのことだった。
『都に続く縁の道を歩く』〜さあ!まいこましてこかぁ〜
パート1: 錦から柏崎の笠木峠を越え、旧宮川村 天ヶ瀬まで、2013年12月1日
パート2: 天ヶ瀬から栗谷を通り大陽寺を訪ね、湯谷峠を越えて旧飯高町(松阪市)、2014年10月19日
パート3: 今回
『都に続く縁の道を歩く』パート2は次の栗谷川界隈散策とほぼ同じルートを歩いたと聞き、この先奈良までをぜひとも歩きたいとの思いが高まっていた。
【参考】
- 宮川流域案内人の会主催行事「清流宮川の支流を歩こう! 栗谷川界隈散策(大台町)」 2015年03月28日
そして、やっとその念願の日がやってきた。とは言え、今回はパート3で三重県と奈良県の県境である高見峠を目指すツアーだった。この案内が展開されるや否や申し込んだのは言うまでもない。
『都に続く縁の道を歩く』の企画は『丹敷戸畔(にしきとべ)の謎解明プロジェクト』の一環であり、「日本書紀」編纂1300年となる2020年の到着を目標として錦から奈良の都への道「魚の道」を辿るため、2013年・2014年に続き今年で3回目、錦を出発して徐々に奈良へと近づき今回で高見峠へ至った。
さらに活動の詳細はこちら、
度会郡大紀町錦で、地域活性化を目的に活動している3つのグループ「戸畔の会」「ISOMON6」「アンチョビ・サーデン錦」が協力して、平成24年から『丹敷戸畔の謎解明プロジェクト』に取り組んでいます。
平成24・25年度は、地元錦の歴史や言い伝え、祭り、方言等について聞き取り調査を行い、調査結果をもとに作成した紙芝居を披露するとともに皇學館大学の岡田登教授をお迎えし、講演会や街歩きを実施しました。
活動を通じて、今まで知らなかったことや驚きがたくさんありました。地元錦のことのみならず、錦と奈良の都、或いはその経路にあたる地区との交流や結びつきが明らかになったことで、活動の意欲が一層に高まり、2020年の「日本書紀」編纂1300年を目標に、錦から奈良の都への道「魚の道」を辿る取り組みを行うことになりました。
このマップをご活用頂き、「魚の道」を辿ることで、私たちと一緒にその歴史や物語を体験しましょう。戸畔の会
大紀町錦地区は、日本最古の歴史書「日本書紀」にもその地名が記載されている古い歴史のある地域です。(大紀町役場錦支所には鏡や勾玉・土器などの出土品が展示されいて間近に見る事ができます。)戸畔の会は地域の子どもたちにも分かるように、歴史や文化を広く伝えて行く活動をしています。ISOMON6
地元に元気とやる気を起こそうと、6人のお母さんが立ち上がり、海開きイベントや失われつつある祭り行事の継承・保護を進める活動をしています。アンチョビ・サーデン錦
地域で捕れる、安い魚をアンチョビやオイルサーディンなどに調理加工し魚の良さを知ってもらおうと活動しています。【引用】 今回いただいた「『都に続く縁の道を歩く』さあ!まいこましてこかぁ」マップより
また、先のチラシによると
2020年の「日本書紀」編纂1300年を目標に、神武東征の上陸地と言い伝えのある大紀町錦から都(奈良)までの道を辿って行こうと企画しました。
塩や魚を奈良方面まで運んだ行商の道であり、漁師が大漁を願った祈りの道でもあります。いよいよ高見峠から奈良盆地を望みます。飯高(松阪市)地区と錦とのかかわりや、歴史ある七日市本陣跡・御神木大楠の立つ水屋神社などを巡ります。
このツアーでは実際に山道を歩く「山歩きコース」とバスで史跡を巡る「バス史跡巡りコース」の二本立てだった。水屋神社や七日市本陣跡など多数の史跡を巡り、専門家が解説してくれる「バス史跡巡りコース」も興味深かったが、奈良までの道を辿るのであれば現場を歩くことを優先し「山歩きコース」を選択した。
前置きが長くなったが、これから実際の記録・・・
寄り道を繰り返してから集合時刻に間に合うように大台町役場へ到着。受付を済ませると昼食の弁当の引換券を受け取った。
2台のスクールバスに分乗すると、山歩きコースの私が乗っている2号車が先行して大台町役場を後にすると別の集合場所である飯高B&G海洋センターへと向かった。
大台警察署前交差点で国道42号を右折。
この日は消防(防災)訓練が展開されていて各所に消防団員の姿があった。(お疲れさま!)
バスは順調に進むと大陽寺の門がある分岐で湯谷峠・飯高町方向へと向かった。
この先は歩いたことがあるルートを・・・ 大陽寺の前を過ぎると
湯谷峠の下を抜ける湯谷トンネルをくぐった。歩きとは違い車だと速い。ただし、今回のスタート地点はまだまだ先だった。
飯高B&G海洋センターにて、こちらに集合していた参加者と合流すると開始の挨拶、紹介等を終えて
「山歩きコース」と「バス史跡巡りコース」に分かれてそれぞれのバスが出発した。
私は「山歩きコース」なので、これからは「バス史跡巡りコース」と合流するまでは山歩き・・・。
「山歩きコース」の案内人は、宮川流域案内人の会 会長である巽幸則さんだった。巽さんはパート1からずっと山歩きを案内していたそうだ。
大台町役場を出発した時には雲の切れ目から太陽が顔を覗いていたのだが、飯高B&G海洋センターでは空から太陽の姿は消え、山歩きの出発点である舟戸へ向かう途中には、バスのワイパーがフル稼働となる程に雨足が強くなることもあった。
出発点である舟戸地区に到着。しとしとと雨が降っていたため、雨具を準備したり、傘を差したり・・・。
バスを後にすると、「晴れていたら前方に高見山がそびえている。」との説明を受けながら今日は見えない高見山を目指しての歩行が始まった。
左手にはこんな吊橋。渡ってみたかったが集団行動の日なので次回の楽しみにとっておいた。
苔むした擁壁。
しばらくすると舟戸公民館の前に到着した。
お参り。
公民館を背にして坂道を進むと右手に「紀州街道」と刻された石柱が建っていた。
この付近からの風景をパチリ。
坂道をさらに進むと「落石注意」の警告板と斜面には落石防止網。
ここ数日の悪天候のためだろうか、大量の落ち葉が道路脇に積っていた。
さらに進むと右手に滝が見え、その先では先行集団が立ち止まっていた。
案内板には「腰折れ地蔵」とあり、この階段の上にあったようだ。ここも次の楽しみに・・・。
この先で右へとカーブすると橋が架かり、その袂には「五輪塔、両部曼荼羅 波瀬むらづくり協議会」の案内板。その脇には近畿自然歩道の案内柱、さらには何か構造物の銘板が置かれていた。
さらにこれらの反対側には、「和歌山街道」散策コースの案内板。これから歩くルートが記されていた。
「蘇我入鹿の首塚→能化庵跡→両部曼荼羅→展望所→大二木茶屋跡→ブナの大木→高見峠(1時間)」
この橋は櫛田川に架かる舟戸街道橋。
橋の全体はこんな感じで、
橋上から櫛田川の上流方向を望むとこんな感じ。
橋を渡り終えると滑りやすい階段が続くルートの先に
五輪塔(伝 蘇我入鹿首塚)が建っている。
松阪市指定文化財 史跡
指定 平成3年9月27日
五輪塔
(伝 蘇我入鹿首塚)
大化改新(645)で大極殿において中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足(藤原鎌足)に暗殺された蘇我入鹿を祀ったものといわれている。上部から空、風、火、水、地を表す梵字が各四面に見られる。
地輪には銘文があるが、判読困難である。
銘文だけでなく、梵字も識別できないほどに・・・
五輪塔を後にしてすぐの場所には
寺院跡「能化庵」がある。
寺院跡「能化庵(のうげあん)」
蘇我入鹿の妻(法名・心月院殿貞光雲盛大法尼)と姫君(法名・瑞容院忠玉恵臣大法尼)が入鹿の首塚を祀るために住んでいたとも伝えられている。屋敷跡と思える平地と石垣を見ることができる。
飯高町教育委員会
また、寺院跡「能化庵」の案内板の脇に立つ [両部曼荼羅> の案内板に従うと、山道から少し離れた場所にある両部曼荼羅石碑を往復した。
両部曼荼羅(りょうぶまんだら)
高さ2.2m 幅2.3mの自然石
右端に元和五年(1619)五月十八日の年号、中央に南無阿弥陀仏、上部に日輪・月輪が刻まれ、両部曼荼羅の形式をとった石碑である。
飯高町教育委員会
両部曼荼羅から寺院跡「能化庵」付近へ戻ると山道(和歌山街道)歩きを再開した。足元の変化を楽しみながら高度を稼いでいった。
「誰?」
シダが一帯に・・・
そして遂に林道へと到着。この林道の脇には
この道標が建っている。しばし休憩した後
[ 高見山 2800m > 方向へと歩き始めた。
ほどなく木が生えていない広い場所へ到着。
山道脇には朽ちて倒れてしまった案内板。
そこには、
大二木(おにぎ)茶屋跡
「伊勢の高みは高いようで低い 低い大二木の餅や高い」と歌われはやされた。
現在も「かまど跡」や「かわや跡」が当時の形をとどめている。
飯高町教育委員会
かまど跡やかわや跡を探す余裕もなくこの場を後にした。
さらに、林道と交差すると
近畿自然歩道<トイレ1200m・大二木茶屋跡400m>の道標に到着。道標には「高見峠」ではなく「トイレ」と記されてるところが興味深い。高見峠まで後1.2km。
雨は止む気配を見せず、逆に雨足が強まることもあった。それにもめげずに黙々と歩みを進めた。
そして、ブナの大木にまで到着。
歴史を感じさせてくれる風貌だ。
高度を上げるにつれてガスが濃くなり
ついにはこんな光景となってしまった。
そして、旧国道166号に合流した。
合流点に建つ道標はこちら。
あと100mで本日の最大の目的地である高見峠。
そして
三重県から奈良県へ
振り返ってパチリ。奈良県から三重県方向を。まさにここが県境だ。
以前に高見山に登ったことを思い出しながら登山口の鳥居と階段を見つめた。
【参考】
- 待望の高見山トレッキング 2013年11月16日
なお、旧国道166号の奈良方向は前回訪れた時と同様に「全面通行止」となっていた。
今日は高見山に登る予定はなかったので、昼食前に高見峠の周囲を手短に散策。室生赤目青山国定公園の標柱の隣に傾いて立つ案内板には
渡り鳥の観察について
サシバ・ハチクマ等渡り鳥の観察に適した場所が北部台高登山ルート線上 雲ケ瀬山の南方約300Mのところにあります。9月中旬から10月旬にかけて気象条件のよい日には1日2000羽以上の渡り鳥の飛行を見ることが出来ます。 東吉野村
と記されていた。今でも2000羽以上を観ることができるのだろうか。壮観だろう!
さらにその奥には、登山届記入ボックス。
「バス史跡巡りコース」のバスも高見峠を目指していたのだが、史跡での説明が長引いて予定より到着が遅れていた。山歩きメンバーは先行して昼食となった。「バス史跡巡りコース」のバスは20分以上遅れの到着。それぞれに弁当を受け取ると遅い昼食となった。
全員が昼食を終えるまで時間があったので鳥居の先の階段上付近も散策。階段の上からパチリ。
本日の「都に続く縁の道」最終点である高見峠を後にすると反省会に向かう途中で本陣跡がある波瀬を散策した。高見峠を後にして旧国道166号を戻る途中でパチリ。バスの中が暖かかったのだろう、カメラのレンズが曇ってしまいしばらくこんな状態だった。
旧国道から現在の国道166号へ出ると波瀬へと向かった。波瀬の高い場所でバスを降りると
まずは、陶芸家・東健次氏が私費で長年を費やして創り上げた芸術空間庭園「虹の泉」を遠望。
遠望してこの広さだから目の当たりにしたら・・・
頭には「虹の泉」の余韻を残しながら坂道を下ると
遠くには見覚えのある光景が広がっていた。あれは波瀬神社の社叢。この時期の波瀬神社は私のお気に入りの場所となっている。
さらに坂道を下ると
本陣跡がある波瀬のメインストリートへ出た。こちらのお宅は脇本陣だったとのこと。
この角には距離現標が建っている。
本陣跡方向へ・・・
立派な松の木、こちらが波瀬本陣跡だった。松の木の辺りにはお白洲があったそうだ。
そして、本陣跡の右方向へ進むと、こちらも立派な建物。初めてこちらを訪れた際、このお宅が本陣跡であると勘違いしてしまった。
こちらは田中本家で田中彦左衛門邸(現在は田中彦左衛門を襲名していないそうだが)。
振り向いて波瀬のメインストリートをパチリ。
田中彦左衛門邸にはこんな立派な蔵も。
この前から望む風景も絶品だ。
こちらも人気の風景?
ここから坂道を下ると先ほど遠望した波瀬神社が左手に鎮座している。
【参考】
- 波瀬神社、波瀬本陣跡(松阪市飯高町波瀬) 2012年11月18日
- 紅葉の波瀬神社と波瀬本陣跡(松阪市飯高町波瀬) 2013年11月16日
あの素晴らしい紅葉を思い出したら正面に石段ではなく、手前にあるこの石段を駆け上がっていた。
社務所前を通り過ぎると手水を受けるのも忘れて
紅葉に魅入ってしまった。
黄金のじゅうたんが敷かれた参道を進むと
まずはお参り。手水の代わりに黄金のじゅうたんが心身を清めてくれてようだった。
拝殿前から見下ろしてパチリ。
さらに神宮遙拝所付近にて。
後ろ髪を引かれつつも制限時間となったため
波瀬神社を後にした。
急いでバスへ戻ると、交流会(各コースの報告会)が実施された飯高町林業総合センターへ到着。
交流会では、錦の歴史や言い伝え・祭り・方言等について聞き取り調査した結果をもとに作成された紙芝居が披露された。
その後、「山歩きコース」「バス史跡巡りコース」の担当者から概要報告があり、続いて松阪市文化財指導員である小林平八郎さんによる解説。
その後におやつとして「でんがら餅」が配られた。
「でんがら餅」が参加者の手から口へと運ばれるなか、元松阪市文化財センター所長 小林典子さんから「でんがら餅」の製法や名前の由来についての説明があった。
そして最後には、皇學館大学教授である岡田登さんによるプチ講演会が開催された。
(交流会での詳細は省略したので知りたい方は一報下さい。)
交流会が終了すると飯高B&G海洋センターに立ち寄ってから
大台町役場へと戻った。解散(お疲れさまでした!)
パート3からの参加となった『都に続く縁の道を歩く』、「今後は奈良の都へたどり着くまで参加したいと思う。いや、する。」と決意して大台町役場を後にして帰途についた。
あと、サブタイトルになっている『さあ!まいこましてこかぁ』とは錦弁で、その意味は「『よっしゃー!根性据えて頑張って行こかー』ってことだ。」と知人に教えてもらった。
さあ!まいこましてこかぁ