宮川流域案内人とともに 熊野脇道伊勢路旅 番外・大紀編其ノ一

2016年01月24日(日) 宮川流域案内人とともに 熊野脇道伊勢路旅 番外・大紀編其ノ一 (車、徒歩)

昨年の12月12日に実施された「熊野古道伊勢路旅 女鬼峠編」に続き、「熊野古道伊勢路を守る会」が企画する熊野古道伊勢路旅の第二弾、いきなり番外として開催された「宮川流域案内人とともに 熊野脇道伊勢路旅 番外・大紀編其ノ一」に参加した。
今回巡ったルートには何度か訪れた場所もあったが、全く知らなかったことも多く貴重な体験となった。また、今回の集合場所である大紀町役場七保支所の近くにある漂泊の詩人 伊良子清白さんの墓所にお参りすることも目的のひとつだった。

 

「宮川流域案内人とともに 熊野脇道伊勢路旅 番外・大紀編其ノ一」の案内

「宮川流域案内人とともに 熊野脇道伊勢路旅 番外・大紀編其ノ一」の案内

 

【参考 熊野脇道について】

【参考 私の記録】

 

集合場所である大紀町役場七保支所には早めに到着したので、受付を済ませる前に伊良子清白の墓にお参りした。(その内容は別の記事で紹介する)

定刻の9時半になると支所前に参加者が集まり、本日の予定と地元の案内人が紹介された。

大紀町役場七保支所(集合)

大紀町役場七保支所(集合)

 

説明ポイントで全員が説明を受けることができるように全体を二つのグループに分けて、散策が開始された。(本日の散策ルートは次の通り)

大紀町役場七保支所(集合) → 漂泊の詩人 伊良子清白の墓 → 七保大橋から望む打見の渡し場跡、野添の巻き(宮川) → 七保大橋付近、下流側に残された打見の渡し場跡へと続く石畳 → 七保大橋付近、上流側の(打見)八柱神社 → 魚取神社 → 神の岩展望台 → 武士谷 → 伊良子清白が倒れた時に訪問診療していた辺り(櫃井原) → 金輪橋(藤川)付近 → あごなし地蔵尊(金輪) → 金輪橋(藤川) → むかしのくらし博物館 → 倭姫命が腰掛けた石があるとされる山の遠望 → いぬこえへの分岐 → 「右 金輪 古里 藤」の道標 → 野田原橋(藤川) → 幽霊岩付近 → 七保小学校前 → 橋がなく藤川を歩いた頃の分岐 → 大紀町役場七保支所(解散)

 

七保支所を出発するとまずは漂泊の詩人 伊良子清白の墓へ向かった。ここに案内板があり「この先二つ目の辻を右折」と書かれていたが、ひとつ目の辻を右折。

「明治新体詩中の鬼才 伊良子清白の墓」案内板

「明治新体詩中の鬼才 伊良子清白の墓」案内板

 

左手の高台には墓地が望める。あの墓地を目指せば左右のどちらからでも訪れることができる。今回は右側から巻くように墓地を目指した。

漂泊の詩人 伊良子清白の墓がある墓地の遠望

漂泊の詩人 伊良子清白の墓がある墓地の遠望

 

坂道を上った先の墓地に立ち並ぶ墓石には「見並家」、「中瀬家」の名が多い。漂泊の詩人 伊良子清白の墓はその片隅、町を見下ろすことができる場所にあった。

漂泊の詩人 伊良子清白の墓

漂泊の詩人 伊良子清白の墓

 

また、ここから見下ろせる橋の近くで実施された発掘調査では「泥塔」と呼ばれる遺物が発見されたことが紹介された。この野添大辻遺跡の発掘調査現地説明会には私も参加し、「泥塔」を触ったことを思い出した。

【参考】

 

伊良子清白の墓を後にすると次は宮川に架かる七保大橋へと向かった。その途中で

漂泊の詩人 伊良子清白の墓から七保大橋(宮川)へ

漂泊の詩人 伊良子清白の墓から七保大橋(宮川)へ

 

桶に張られた水は凍っていた。今日は雪がちらつく天候で凍てつくほどに寒い。

漂泊の詩人 伊良子清白の墓から七保大橋(宮川)へ

漂泊の詩人 伊良子清白の墓から七保大橋(宮川)へ

 

七保大橋へと続く道路へ出るとかなり趣のある店舗をパチリ。現在は隣の店舗で営業しているようだ。

漂泊の詩人 伊良子清白の墓から七保大橋(宮川)へ

漂泊の詩人 伊良子清白の墓から七保大橋(宮川)へ

 

また、その先にあるのが七保診療所。(こちらについては別途・・・)

漂泊の詩人 伊良子清白の墓から七保大橋(宮川)へ

漂泊の詩人 伊良子清白の墓から七保大橋(宮川)へ

 

さらに進んで七保大橋を途中まで渡ると

七保大橋(宮川)

七保大橋(宮川)

 

橋の途中で説明があった。下流側に見える(?)のは打見の渡し跡で

七保大橋から望む打見の渡し場跡(宮川)

七保大橋から望む打見の渡し場跡(宮川)

 

さらにその先にある奥まった部分は「野添の巻き」と呼ばれ、文字通り流れがうずを巻く危険な場所とのこと。

野添の巻き付近(宮川)

野添の巻き付近(宮川)

 

このまま橋を渡ってしまうと熊野古道に出てしまうので、脇道へ戻るため橋の中央から引き返した。

七保大橋(宮川)

七保大橋(宮川)

 

その途中で右手方向をパチリ、粟生頭首工が遠望できる。

七保大橋から遠望した粟生頭首工(宮川)

七保大橋から遠望した粟生頭首工(宮川)

 

また、左下にはこんな光景。この後にこの場所へ向かうことなど知らずに撮っていたが素晴らしい場所だった。

七保大橋から見下ろした右岸下流側の斜面

七保大橋から見下ろした右岸下流側の斜面

 

橋の左側からは川辺へ下るルートが無いため、右方向からぐるりと巻いて橋の下へたどり着いた。さらに橋の下をくぐると

七保大橋の下、右岸

七保大橋の下、右岸

 

先ほど橋の上から目にした斜面へと下った。

七保大橋付近、下流側に残された打見の渡し場跡へと続く石畳

七保大橋付近、下流側に残された打見の渡し場跡へと続く石畳

 

その足元にはこんな立派な玉石を並べた石畳が敷かれていた。この先は打見の渡し場跡で

七保大橋付近、下流側に残された打見の渡し場跡へと続く石畳

七保大橋付近、下流側に残された打見の渡し場跡へと続く石畳

 

紀州藩の二歩口役所(宮川を利用して物資を運ぶ際の通行税を徴収する役所)が置かれていたとのこと。

七保大橋付近、下流側に残された打見の渡し場跡へと続く石畳

七保大橋付近、下流側に残された打見の渡し場跡へと続く石畳

 

石畳を後にして七保大橋をくぐり返すと右手には

七保大橋付近、上流側の(打見)八柱神社

七保大橋付近、上流側の(打見)八柱神社

 

八柱神社。先を急いでいたので立ち寄らずに後にした。

七保大橋付近、上流側の(打見)八柱神社

七保大橋付近、上流側の(打見)八柱神社

 

七保大橋を後にすると行きとは異なるルートを通って打見大台線(県道747号)へ出た。その後はしばらく道なりに・・・

打見大台線、県道747号

打見大台線、県道747号

 

右手には先ほど七保大橋から遠望した粟生頭首工が近くに見えた。

打見大台線、県道747号から望む粟生頭首工(宮川)

打見大台線、県道747号から望む粟生頭首工(宮川)

 

粟生頭首工を過ぎてからさらに道なりに進むと道路がクランク状に曲がる場所にて先頭が停止。こちらが魚取神社。打見で捕った鮎は伊勢神宮へと献上されていたそうだ。

魚取神社(大紀町打見)

魚取神社(大紀町打見)

 

大宮町歴史の道(編集発行・大宮町教育委員会)[合併により大宮町は大紀町になっている]のP.12打見村の項には次のように記されている。

『年中神役下行御贄以下記』に「打見・金輪鮎白干三折一五○喉食一五文」とあり、金輪村とともに白干鮎を皇大神宮に献進した。

 

また、社頭には「打見神事魚取祭由来」を記した説明板は建てられている。

魚取神社(大紀町打見)

魚取神社(大紀町打見)

 

打見神事魚取祭由来
この地打見字滝が広の大神宮山という打見の名は鎌倉時代から表われ区民は宮川の川岸に社を建て毎年六月十一日皇大神宮に御饌の鮎を明治四年まで献上していた
その後も区民は之を心に留め魚取祭を奉仕してきた
昭和三十八年宮川用水粟生ダムが完成四十四年伊勢電子工業が設立され昔の状態が失われてゆくようになったので昭和四十五年伊勢電子工業と打見地区の協力によって社祠を現地近くに建て祭を行い往時の面影を後日に伝えるようにした
平成二十二年七月吉日
大紀町打見地区
ノリタケ伊勢電子株式会社・・・

 

さらに先へ進むと宮川の川面が望め、

神の岩展望台付近

神の岩展望台付近

 

その先には宮川に浮かぶように存在する「神の岩」を展望できる場所にたどり着いた。

神の岩展望台

神の岩展望台

 

以前にこの場所から神の岩を眺めたこともあるし、実は神の岩に上陸(?)したこともある。(詳細は冒頭で紹介した2013年11月23日記事のリンクにある)

神の岩(宮川)

神の岩(宮川)

 

神の岩を後にすると来た道を引き返した。魚取神社の手前に次の分岐があり、こちらが武士谷のルート。武士谷を抜けると金輪へとたどり着く。

武士谷、夢・花街道への分岐(大紀町打見)

武士谷、夢・花街道への分岐(大紀町打見)

 

入口の案内板には「武士谷 夢・花街道」と記されている。

武士谷、夢・花街道の案内板(大紀町打見)

武士谷、夢・花街道の案内板(大紀町打見)

 

緩やかな上り坂が・・・

武士谷、夢・花街道

武士谷、夢・花街道

 

・・・

武士谷、夢・花街道

武士谷、夢・花街道

 

上り詰めると峠には休憩所があり、その奥には雨ヶ岳の登山口がある。高度差約200m、30分ほどで山頂へ到着できるそうだ。(地元の方が荒れた山道を整備したそうだ。一度登ってみたい)

武士谷、夢・花街道の休憩所

武士谷、夢・花街道の休憩所

 

また、休憩所(東屋)には武士谷由来が掲示されていた。

武士谷由来の説明板

武士谷由来の説明板

 

武士谷由来
今から四百年程前、永禄十二年大河内城(松阪市)で織田信長の軍勢と戦った北畠具教は和議が成立し三瀬御所へ隠居しました。
三瀬御所(上三瀬)は急峻な山の谷間に階段状に造られ東の尾根には茶臼山砦(下三瀬)を築き天険の城郭となっていました。北畠氏を慕う地侍達も集まり武家屋敷を造られていきました。
北畠氏の勢力が強くなるのを恐れた信長は織田信雄に命じ具教を謀殺させました。時に天正四年十一年二十五日、具教四十九才の時のことでした。
この頃、金輪には乾兵衛が櫃井原には林雑記が手勢を引きつれて居館を構えており、いずれも北畠氏の支配下にありました。金輪から武士谷を越え宮川を渡り高奈に上り長ヶを経て三瀬御所に至る道は連絡路として重要な道で多くの武士どもが往来したと思われます。具教が謀殺されたとき林雑記は自決し乾兵衛は落ちのびていったと伝えられています。何時かつわもの共が行き来した谷を武士谷と呼び、近くには戦場切(千丈切)、経ヶ坂、陣発広(陣八広)など戦国の時代を思わせる地名がいまに残ります。
また一方この道は古くから伊勢神宮へ奉献するための宮川で捕れた鮎を運んだ道でもありました。
旧暦六月十一日武士谷の水が宮川と合する所釜ヶ淵河原に打見村民が集まり金輪村惣代立会いのもと酒肴で祝い、みそぎして身を清め神宮を遙拝して鮎漁をしました。
捕った鮎は金輪村惣代が武士谷を通り持ち帰り茅草で串焼きにし、六月十四日早朝「太一御用」印の魚桶二個に榊、しめ縄をかけ金輪の人達により神宮御炊殿に献上しました。
この神事は鎌倉時代からあり、金輪、打見村に引継がれてきましたが、明治四年廃止されました。昭和三十八年粟生頭首工ができ釜ヶ淵は水没し、祭神は伊勢電子工場正門横に魚取神社として祀られています。
これらの事から武士谷道は古くから開け下楠道、神原道がなかった当時は主要な道路であったことが伺えます。
ここに東屋建設に際り武士谷の起原を記した次第であります。
平成十一年六月吉日
大宮町金輪区櫃井原組
大宮町文化調査委員 小島正二

 

休憩所(東屋)を後にすると武士谷を金輪方向へと下った。

武士谷、夢・花街道休憩所から大紀町金輪へ

武士谷、夢・花街道休憩所から大紀町金輪へ

 

その先では、伊良子清白が倒れた時に訪問診療していた辺りも通過した。

伊良子清白が倒れた時に訪問診療していた辺り(櫃井原)

伊良子清白が倒れた時に訪問診療していた辺り(櫃井原)

 

トイレ休憩のため、まずは金輪橋(藤川)近くの小公園へ。

金輪橋(藤川)付近

金輪橋(藤川)付近

 

休憩の途中で、金輪橋の上から藤川の下流方向をパチリ。橋の上にいる人の影が・・・(ぼんやりしているが)

金輪橋から望む藤川の下流側

金輪橋から望む藤川の下流側

 

休憩を終えるとなぜか来た道を引き返した。

金輪橋からあごなし地蔵尊へ

金輪橋からあごなし地蔵尊へ

 

先ほど下ってきた武士谷、夢・花街道を左手に見ながら先へ進むと

武士谷、夢・花街道の案内板(大紀町金輪)

武士谷、夢・花街道の案内板(大紀町金輪)

 

こちらがあごなし地蔵尊。ここは武士谷の休憩所付近にある池から流れ落ちている水路の脇にある。

あごなし地蔵尊(金輪)

あごなし地蔵尊(金輪)

 

【参考】

 

そろそろお腹が空いてきた頃、あごなし地蔵を後にすると先ほどその辺りで休憩した金輪橋で藤川を渡った。

金輪橋(藤川)を渡って

金輪橋(藤川)を渡って

 

橋を背にして真っ直ぐに進むと右手にこの案内板を見つけることができる。ここを右へ曲がるとその先は左へ。

むかしのくらし博物館の案内板

むかしのくらし博物館の案内板

 

こちらが「むかしのくらし博物館」。

むかしのくらし博物館(大紀町金輪)

むかしのくらし博物館(大紀町金輪)

 

すでに多くの参加者が到着していた。

むかしのくらし博物館(大紀町金輪)

むかしのくらし博物館(大紀町金輪)

 

急いで後と追うと館長である柳田さえ子さんが迎えてくださった。

むかしのくらし博物館 館長の柳田さえ子さん

むかしのくらし博物館 館長の柳田さえ子さん

 

館内へ入ると

むかしのくらし博物館(大紀町金輪)

むかしのくらし博物館(大紀町金輪)

 

すでに多くの参加者が・・・

むかしのくらし博物館(大紀町金輪)

むかしのくらし博物館(大紀町金輪)

 

柳田さんは火鉢を準備してくれていた。寒気に凍えていた私(たち)は身も心も温められ歓喜した。

むかしのくらし博物館(大紀町金輪)

むかしのくらし博物館(大紀町金輪)

 

しばし昼食タイムとなった。温かいお茶までも・・・

むかしのくらし博物館(大紀町金輪)

むかしのくらし博物館(大紀町金輪)

 

昼食を終えると柳田さんから本博物館について説明があった。リピーターを増やす仕組み作りと後継者の確保育成を課題とし、ここ二〜三年はこの地に腰を据えて取り組みたいとの抱負を語っていた。

むかしのくらし博物館(大紀町金輪)

むかしのくらし博物館(大紀町金輪)

 

民家でこのようなかまど「おくどさん」を残しているところは皆無に近いだろう。

むかしのくらし博物館(大紀町金輪)

むかしのくらし博物館(大紀町金輪)

 

こちらでは本膳料理(予約制)も提供していて、先ほどのかまどで炊いたごはんを頂くことができる。私は本膳料理を体験し、感動した。

むかしのくらし博物館(大紀町金輪)

むかしのくらし博物館(大紀町金輪)

 

こちらには本膳だけでなく、さまざまな民具なども展示(見るだけでなく手にとって感じることができる)されているが、その中でも私のお気に入りはこちら、稲藁で編んだ年魚(あゆ)だ。

むかしのくらし博物館(大紀町金輪)

むかしのくらし博物館(大紀町金輪)

 

【参考】 むかしのくらし博物館の詳細、および周辺情報に関する記録はこちら

 

昼食を挟んで一時間半ほどの滞在であったが、「あっ」と言う間に時間が過ぎてしまった。

むかしのくらし博物館を出発

むかしのくらし博物館を出発

 

柳田さんにはご無沙汰だったので、お詫びとお礼を述べると「むかしのくらし博物館」を後にした。

むかしのくらし博物館を出発

むかしのくらし博物館を出発

 

先に渡った金輪橋から続く道へ出ると金輪橋とは反対方向へ進んだ。

大紀町金輪にて

大紀町金輪にて

 

道なりに進むとこの場所で停止。集石場の説明ではなく、

「石神集石場?」(大紀町金輪)

「石神集石場?」(大紀町金輪)

 

・・・。この場所から倭姫命が腰掛けた石があるとされる山を遠望したのだった。(次回は、訪ねてみよう!)

倭姫命が腰掛けた石があるとされる山の遠望

倭姫命が腰掛けた石があるとされる山の遠望

 

さらに先へと進むと見覚えのある看板にたどり着いた。私が以前に金輪を訪れた時にはこの場所で引き返したのだった。(ゆえにこの先は未知の場所)

「いぬこえ」へと続く林道の分岐へ

「いぬこえ」へと続く林道の分岐へ

 

先へ先へと進むと橋の先に分岐があった。

「いぬこえ」へと続く林道の分岐付近の橋

「いぬこえ」へと続く林道の分岐付近の橋

 

ここは丁字路で右側は林道になっている。林道の先には「いぬこえ」なる場所があるそうだ。「いぬ」とは武士谷由来説明板にあった乾兵衛に関係するらしい。

「いぬこえ」へと続く林道の分岐へ

「いぬこえ」へと続く林道の分岐へ

 

林道を背にするとその先

「右 金輪 古里 藤」の道標付近

「右 金輪 古里 藤」の道標付近

 

右手には道標が残されていた。

「右 金輪 古里 藤」の道標

「右 金輪 古里 藤」の道標

 

建立は弘化二年(1845)で、「右 金輪 古里 藤」「左 山ミち」と刻されている。以前は道標の脇に細い道があり通学にも使われていたとのこと。

「右 金輪 古里 藤」の道標

「右 金輪 古里 藤」の道標

 

道標を後にし大紀町山村広場の前で左折すると

大紀町山村広場 駐車場

大紀町山村広場 駐車場

 

野田原橋にて藤川を越えた。

野田原橋(藤川)

野田原橋(藤川)

 

区画整理されている農地の間を抜けると県道38号にたどり着いた。曲がった道路を真っ直ぐにする工事が進められていた。

道路改良工事中の県道38号

道路改良工事中の県道38号

 

ここを道なりに進めばゴールである大紀町役場七保支所にたどり着く。歩道を歩いているとこんなところでも停止。この下に大きな石があり「幽霊石」と呼ばれているが、地元でも若い子は知らないかも・・とのこと。集落の境を定めた石のようだが・・・。(次回はこの石にも会ってみたい)

幽霊岩付近(県道38号)

幽霊岩付近(県道38号)

 

七保小学校の前を通り過ぎると

七保小学校前

七保小学校前

 

程なく七保支所へ到着したが解散予定時刻の一時間前だったので、オプション追加となった。道路を挟んで七保支所の向かい側にある路地へ入ると

大紀町役場七保支所前から橋がなく藤川を歩いた頃の分岐付近へ

大紀町役場七保支所前から橋がなく藤川を歩いた頃の分岐付近へ

 

地道をどんどん下った。

大紀町役場七保支所前から橋がなく藤川を歩いた頃の分岐付近へ

大紀町役場七保支所前から橋がなく藤川を歩いた頃の分岐付近へ

 

その先はこんなところ。それは橋が架かる前に藤川を歩いて渡った頃に分岐があった場所だった。今は踏まれていないのでルートが分からない状態になっていた。

橋がなく藤川を歩いた頃の分岐付近

橋がなく藤川を歩いた頃の分岐付近

 

しばしこの場で和んでから

橋がなく藤川を歩いた頃の分岐付近

橋がなく藤川を歩いた頃の分岐付近

 

かなり下った坂道をゆっくりと戻ると七保支所にて解散となった。

橋がなく藤川を歩いた頃の分岐付近から大紀町役場七保支所へ

橋がなく藤川を歩いた頃の分岐付近から大紀町役場七保支所へ

 

【 20160124 の記録 】

 

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