2016年08月27日(土) 宮川流域案内人とともに 一之瀬川上流「中村集落」ちいき巡り (車、徒歩)
このツアーは、宮川の支流である一之瀬川の上流に位置する度会町南中村の地内を巡るものだった。主催は度会町地域資源を守る会で、宮川流域ルネッサンス協議会が後援だった。ひと地域とはいえぐる〜りと巡ると興味深い場所が多く、ひと巡りでは物足りなかったのでもう一度じっくりと巡りたくなった。
サニーロードを横切ると集合場所である南中村公民館を目指した。能見坂の手前でこの幟を発見するとこの奥に南中村公民館があった。
早々に受付を済ませると周辺を散策していたが、集合時刻の9時が迫ってきたので大急ぎで公民館へ戻るとツアーが開始されるところだった。参加者は26名。
一之瀬川上流「中村集落」ちいき巡りは、主催である度会町地域資源を守る会の会長 橋本丈男さんのあいさつと説明で始まった。
そして、今回のツアーのほとんどのガイドを務めたのは宮川流域案内人仲間でもあり、度会町地域資源を守る会の事務局を担当している御村一真さんだった。御村さんは南中村在住で、後述する御頭神事の一番宿(神事に関わる儀式や財政面ほか全てを執り行うホスト役、ただし、現在はその形が崩れ、宿は公民館となり宿主は区長が担っている)を担当していた由緒ある家系にあるそうだ。南中村の巡りをガイドするにはもっとも相応しい人物だった。
各自で身体をほぐして歩く準備を終えると、御村さんを先頭として「ちいき巡り」が開始された。今回のルートは南中村地内で8の字を描き、約7〜8kmの行程。南中村公民館を後にすると右方向へ道なりに進んだ。次の十字路で右へ折れれば「南勢新四国八十八ヶ所」であるが、
南勢新四国八十八ヶ所には後で訪れるので、とにかく道なりにまっすぐ進んだ。
左手にはこんな風景が広がっていたので、私が風景に見惚れながら歩いていると地元の方が一言。
ここに浅間さんがまつらている。以前は山の上(山頂)にあったが、今は大変なのでこの場所まで下ろしている。
とのこと。
少し視線を上げると道路脇の斜面の上にまつられていた。
浅間さんに見入っていると集団から遅れをとったので、急ぎ足で追いかけた。
皆さんにたどり着いた頃、コンバインが通り過ぎた。
今でも水路には水が流れ、
この先にはこんな流れもあった。
こちらの三差路へたどり着くと南中村の名前の由来やこの付近の地区名等について解説があった。
まず、廃藩置県の頃、度会郡に「中村」なる地名は二ヶ所にあった。それらはもちろん今巡っている場所と現在伊勢市中村町になっている場所だった。同じ度会郡に同名の地名があったため、現伊勢市の中村は「北中村」にそしてこの地は「南中村」になったが、今では伊勢市は「中村町」になっている。なお、現度会町の「南中村」は行政的には今でも「南中村」だが、地元の人々は江戸時代の名残で単に「中村」と呼んでいる。行政文書によると半年間だけ一之瀬中村とされた時もあったようだ。
また、この付近は日部と書いて「ひべ」地区、今は「へべ」と呼ばれている。弥生時代の遺蹟もある古い場所だ。
この道は巡幸で倭姫命が歩いたかもしれない。
倭姫命に思いをはせながら・・・
すると左手、長谷さんちにリアリティのある人形を見かけた。その名は「ジェームズ」なり。
ジェームズに再会を約してこの場を離れると
この右手付近に実観院があったとのこと。
実観院跡の北側には井戸があり、
今でもそれなりの流量が確保されていた。夏は冷たく、冬は暖かく。
実観院跡の井戸を跡にするとお光石がある山の中腹へ向かった。
足元が舗装路から地道へと変わると
山の斜面を登った。
足元のサワガニに驚きながらも先へ進むと
かなりの高度を稼いだ。
お光石から少し離れた位置にには石畳の中央には粗造りの石柱が建てられている塚があった。
そして、お光石と刻された石柱の先には
チャート製の鏡面仕上げされたようなお光石が座していた。高さ110cm、幅55cm、奥行き50cmほどで、この鏡石は太陽の光を反射して南中村な町へ送れそうな微妙な傾斜が設定されていた。ここは私有地のために地元の方でもこの石の存在を知る人は少ないとのことだったが、先ほどのお光石と刻された石柱は何のために建てられたのだろうか? この石柱には多くの人に知ってもらいたいとの願いが込められているのではないか。
お光石を後にすると
ジェームスに再会するため(?)に長谷川さんちを訪れた。
奥さんが冷やした西瓜でもてなしてくださった。(感謝)
また、こちらの家の軒には約15mの長さの丸太が軒桁として使われていた。根元にも味が有る。
何とも豪華な軒先だろう!
程よい休息タイムを終えると来た道から外れる方向へ折れた。その道沿いの畑には・・・
さらに右へ折れると一之瀬川に架かる日部(へべ)橋へ向かった。
こちらが
日部橋だ。この辺には延命地蔵がまつられている。
橋の上から眺めている光景はこちら、
一之瀬川の下流側、近くには旧の橋の橋脚跡(?)、その右側にはワニのような石が突き出している。(写真には写っていないので、ぜひ訪れて眺めてみれば、)
日部橋を後にすると右手にはフェンスの向こうでコンバインが唸りをあげていた。
さらに進むと次の田んぼ道を左へ折れた。
田んぼ道を進むと左側に説明板が立っていた。
その説明板には「禊の場」についてとあった。
古来から続けられている御頭神事、南中村では当日の早朝に近くにある「岩の渕」での禊の後、公民館で獅子舞を終えると正午からは一之瀬神社の境内へ四ヶ所(南中村・脇出・和井野・市場)から獅子頭が集結して獅子舞が盛大に行なわれる。
【参考】
- 一之瀬神社の獅子神楽(度会町脇出) 2015年02月11日
説明板から一之瀬川方向へ進むとこのフェンスの先に
「禊の場」と刻された石碑があり、階段を下ると
そこは「岩の渕」、禊の場となっている。ここは禊には相応しい清らかな流れだが、
南中村の獅子頭は一之瀬川をさかのぼりおばあさんに拾われた。おばあさんは御頭を拾った際に竹などで片足を怪我したためケンケンしながら持ち帰ったと・・。そのケンケンのしぐさは現在舞われる獅子神楽にも反映されている。
とのことだ。
「岩の渕」を後にすると県道22号方向へ向かった。
県道22号に出ると道路沿いに庚申塔があり、その中には
金剛青面像というよりも不動明王のような石像が立っていた。
県道22号を横断して右方向へ進むと県道から左へ入った。
目とは鼻の先を左へ(個人宅なので、畑で作業していた女性に立ち入りの許可を取って)入ると
旧八柱神社の跡地を見学した。
さらに上方へ進むと
この辺りには多数のお白石が残されていた。ここに本殿が建てられていたのだろう。
お白石を背にしてパチリ。
旧八柱神社跡を出ると右方向へ中井出バス停から旧道を・・・
梅橋にたどり着くと一之瀬川を渡った。右手方向は上流側、
堰が築かれ、その隅には魚道が設置されていた。
また、左手方向は下流側。旧橋の橋台が残されている。
橋を渡り終えて梅橋 バス停の手前を左へ下ると
田んぼ道を進み、
道路を越えた。
その先にはこんな道標が建てられていた。
その道標には「右 たしから、左はしかみ」と刻されていた。
三重県度会郡南伊勢町慥柄浦
三重県度会郡南伊勢町始神
のことだろう。
こちらの道標を後にすると
大宝山東明院および南勢新四国八十八ヶ所へ向かった。
大宝山 東明院の入口付近に植えられている桜は「ちょうちん桜」と称され、文字通りの形状の花が咲くそうだ。
東明院の境内は掃き清められていたので足跡を付けないように注意を払いながら南勢新四国八十八ヶ所の入口へ向かった。
その途中で、久留山妙音寺にあったとされ明治38年にこちらへ移設された宝篋印塔をパチリ。
こちらの石燈籠にはろうそくが立っていた。
大師堂を過ぎると
町の人々が交代で明かりを灯す常夜燈の先に南勢新四国八十八ヶ所が続いている。
この常夜灯の隣には小松作右衛門の墾田碑が建っている。
道行竃の大庄屋小松作右衛門が和歌山藩の許可を得て明治2年11月から翌年5月に、十数町歩を開田、一之瀬川に石畳のイガラ(堰)を作り、分水して開墾した水田に灌水した。明治18年7月に南中村村一村中で「墾田碑」を建立した。
(一之瀬川のイガラには午後から訪れた。)
ここからは南勢新四国八十八ヶ所。
一番から八十八番まで・・・
秋になるとリンドウが咲くようだ。
こんなにアパートのような祠も見かけた。
そして、「やっと」たどり着いた印象が強い最後の八十八番。
お参り。この付近でヤマビルが発見され、みんなが足元の点検を始めた。
ヤマビル騒動もあったので山頂には長居せず、一気に下った。一部異なるルートに設置されていたこちらはとても立派、石柱には東明院の名があった。
南勢新四国八十八ヶ所の巡礼を終えるとすぐ近くにある南中村公民館居にて昼食タイムとなった。地元の方の好意により公民館の中は十分に冷されていて、かき氷までふるまっていただいた。また、ビデオでは一之瀬神社の獅子神楽の様子が紹介されていた。
充分な休憩を終えると午後の部が開始された。
県道22号を能見坂方向へ進むと急な階段の上には
庚申塔がまつられている。
こちらは金剛青面像だ。
庚申堂が道路工事に伴いこの上へ移されたそうで、以前は道路脇にあったとのことだった。
近くには、先ほど見かけた道標と同様のものが建っていた。「右 たしから、左はしかみ」
さらに先へ進むと案内人達も詳細を知らない立派な石にみんなで注目。なんか謂れがありそうだが!
その巨石を後にすると旧道へ入った。
この建物の隅には
「おうむ石 是ヨリ 十丁」と刻された道標が建っている。
さらに、少し戻ったところには馬供養塔がまつられている。
馬供養塔を背にして駐車場のような空き地を抜けると中村 バス停。「南中村」ではなく「中村」となっていた。
県道22号を横断して振り返ると山の中腹には大きな岩が顔をのぞかせていた。この岩は通称、どんぶり岩とのこと。
田んぼ仕事を寡黙にすすめるおばあちゃんを横目に見ながら
久留橋を渡った。
久留橋の下流側に望めるのが先に登場した小松作右衛門の墾田碑(大宝山 東明院)の紹介であった「イガラ」。時間もなかったため、近づくことはできなかったが、次回は・・・
久留橋を渡り終えてからどんぶり橋をパチリ。
久留橋を後してさらに先へと進むと
稲刈りを横目で見ながら
久留山上さんへ向かった。
途中に獣鳥之供養塔が建っていた。
地道を抜けるとアスファルト舗装路へ一度出るのだが、十数m先で再び地道へ折れた。
道なりに進むと別荘の前(庭?)を通り過ぎて道なりに進むと山上には「山上さん」。
こちらには蔵王権現がまつられていて今でも女人禁制である。
山上から参道を下って、鳥居を抜けてからパチリ。
「久留山上さん」の案内板まで戻り、坂道を少しだけ進むと右手にはこんな石柱(奉納 日本廻國)を見つけることができるだろう。
ここには、妙音寺と観音堂があったが、明治38年にい東明院へ移された。坂の突き当りを右方向へ進むと
こんな風景のなかを黙々と歩いた。
そして梅橋近くへ戻ってくると川の中に注目。
あれらは橋脚のあとだろうか?
梅橋で一之瀬川を越えると
速やかに南中村公民館へ向かった。
本日の「ちいき巡り」、興味深いことの連続だった。
橋本丈男さんの一言で締めくくられるとお開きとなった。
大宝山 東明院を遠望すると帰途についた。