2014年06月29日(日) 白米城とも呼ばれる阿坂城跡(桝形山、阿坂山) (車、徒歩)
昨日(6月28日)は伊勢市立伊勢図書館にて平成26年度ふるさと文庫講演会「伊勢のもの学び」パート6「伊勢の大神宮 125宮社の歴史を考える」の第2回を受講した。今回のテーマは正宮(内宮)、皇祖神である天照大御神を祭る皇大神宮だった。
もともと天照大御神は天皇が住む宮中にて祭られていた(同床共殿)。ところが崇神天皇の御代、天候不順と食物の欠乏により疫病が流行し多数の民を失った。宮中に天照大御神を祭る畏れ多いことがその原因であると考えた崇神天皇は神鏡を皇女である豊鍬入姫命に託し、宮中から三輪山西麓にある笠縫邑へと移した。その後、垂仁天皇の時代となり神鏡はより良い宮地を求める旅に出ることとなり、その御杖代となったのが垂仁天皇の皇女である倭姫命だった。
倭姫命は神鏡を奉戴して大和国を出発すると伊賀国、淡海国、美濃国、尾張国を経て伊勢国を南下すると最終的に五十鈴川の川上(ほとり)に鎮祭され、内宮の創設となった。
本講演の講師である皇學館大学の岡田登教授の説では「天照大御神が伊勢国で祭られることは倭姫命が大和国を出発した時点で決められていた(理由は省略)。しかし、それならなぜ近道である近鉄沿線を東へ向かわなかったのか? それには少なくとも2つの理由がある。ひとつは東へ向かうことは生まれいづる太陽を攻める行為でもあるため困難を極める可能性が高い。そのためこれを避けた。さらにもうひとつ、もし大和国から東へ向かったとすると伊勢国の海側へ出るためには阿坂山を越えなくてはならない。しかし、この当時阿坂山周辺には朝日を拝む集団がいた。朝日は海から昇る太陽、天照大御神は南中の太陽、朝日を拝む集団にとって天照大御神は敵対関係にある。この場所を通過する際に争い事の発生は必然となる。・・・また、阿坂山自体が神であり、その麓には大阿坂と小阿坂に神社がある・・・・・」との話を聞いていたら、阿坂山、大阿坂神社、小阿坂神社を体験したくなった。(この時は大阿坂神社、小阿坂神社と思っていたが、実際いは松阪市大阿坂町と小阿坂町にある同名の阿射加(あざか)神社だった。)
たまたま予定が空いていたので朝から現地へ向かった。やっぱり現場は一番、まずは阿坂山に登り、その後で大阿坂町の阿射加神社、小阿坂町の阿射加神社を巡る計画だった。
国道23号を離れると伊勢自動車道の松阪I.C.を目指した。
松阪I.C.の直前にある交差点を右折してしばらく進むと道路幅が狭くなり、普通乗用車が何とか対向できる程度の道路が続いている。その途中で、次の案内板を見かけて一時停止。
左折すると道路の両側に形状の異なる道標が建っていた。
左側にある道標には「白米城阯」の文字(白米城については後述)、
右側は「阿射加神社」の社標だった。
計画の通り、阿射加神社は後でお参りすることとし先を急いだ。
車を進めると道路沿い左手に次の石柱があった。
「伊勢国司北畠氏菩提所 禅宗 正法山 淨眼寺」の道標と「白米城阯登山口」の道標だった。
「白米城阯登山口」に反応し道なりに進んだ。
ほとんど道なりに進むと程なく浄眼寺の前に到着した。駐車場は浄眼寺の脇、登り口の下にあり、トイレも併設されている。
こちらが、駐車場に設置されているコースマップと阿坂城跡・・・の説明板だ。
阿坂城跡の部分を抜粋すると
阿坂城跡 附 枳城跡・高城跡
国指定史跡 昭和57年4月7日指定
時代 南北朝・室町時代阿坂城跡(あざかじょうあと)(史跡指定面積 165,547平方メートル)
標高300メートル余の山頂に築かれた山城で、南北300メートル、東西150メートルの範囲に及ぶ。南北二つの郭(くるわ)からなり、北郭を椎ノ木城(しいのきじょう)、南郭を白米城(はくまいじょう)とも呼び、台状地を中心に堀切り、土塁等が配されている。
阿坂城は、文和元年(1352)の南北朝の争乱を伝える資料に初めて登場するが、もっともよく知られているのは応永二十二年(1415)に北畠満雅が足利幕府軍を迎え撃った戦いである。籠城する満雅は、馬の背に白米を流して水があるように見せて、水断ち作戦に出た幕府軍を欺き撃退したと『南方紀伝』(江戸時代初めに成立)は伝える。
その後、永禄十二年(1569)、大河内城に拠る北畠具教を攻略するため、織田信長は大軍を発し、先ず北畠の重臣大宮氏の守る阿坂城を攻撃し、落城させている。その後は、使用されることなく廃城となる。(中略)
『南方紀伝』に記される阿坂城の「両出城」が枳城と高城と考えられるところから、阿坂城の国指定史跡化に伴って「附(つけたり)」として枳城跡・高城跡ともに国史跡に指定されるに至った。
2006年11月30日 松阪市教育委員会
また、コースマップはこちら。
説明板とコースマップを見て分かったことだが、以前から言葉だけで知っていた「白米城」は阿坂山の頂上で阿坂城の一部(南郭)である。さらに阿坂山は桝形山とも呼ばれている。
- 阿坂山 = 桝形山
- 白米城 = 阿坂城の南郭
浄眼寺脇にある登り口から阿坂城(白米城)跡を目指した。
この斜面を登って行くが、
一旦振り向いてパチリ。左下の広場が駐車場だ。
しばらくはコンクリート舗装であるが、上に落ち葉が載っているので滑りやすい。昨日の雨もあり特に滑りやすかった。
ここで、コンクリート舗装路が途切れこれから先は地道となる。歩きやすい。
この後は、30分から40分で阿坂城(白米城)跡へ到着する。それまでの風景をパチリ、パチリ・・・
要所には案内板があり、迷うことは無い。
私は一歩一歩を踏みしめながら登っていると後ろからトレールランナーが軽快に駆け上がっていった。
振り返って「←大杉」の案内板をパチリ。
ここには「白米城跡」、「浄眼寺」の案内板。
さらに進むと
「白米城 頂上まで15分」の案内板。
私が登って来たルートとは別の「薬王寺コース」の案内板。
赤い矢印の方向を望むとここにも。
阿坂城(白米城)跡を目指して先へ進むと
この先に
こんもりとした小山が見えた。ここは登り口の説明板にあった北郭の椎ノ木城跡だ。
眺望ポイントも記されていた。
参道の左手を見ると
「椎ノ木城跡」の案内板が立っていたので
城跡へ参入。
木々の間からパチリ、
パチリ。霞んでいるがなかなかの眺望だ。
稼いだ高度を楽しんむと椎ノ木城跡を後にした。
と思ったらまだ、椎ノ木城跡の端にいた。城郭の崩れ防止のため、道がつけられた場所以外は利用しないように・・・。
椎ノ木城跡を背にすると白米城、山頂までは約5分。
雨で泥濘んでいる坂道を足元に気を配りながらゆっくりと下ると
再び上りとなった。
「おぉ、ここが阿坂城(白米城)の土塁だ。」
先ほどの分岐から右手方向へ進むと階段があり、
その脇には次の注意看板が建てられていた。
階段を進むと右手方向に石碑が見えた。
石碑を正面から見るとこんな感じだ。
少し離れてパチリ。
360° の展望なのだが、いいところどりでパチリ・・・・・・
先客であったこちらの男性と20分ほど話し込んでしまった。
阿坂山の山頂であり山城である阿坂城(白米城)跡での楽しいひとときを終える登ってきた道を一気に駆け下りた。その途中、上りでは気にしなかった道標をパチリ。
時にはこんな風景も楽しみながら・・・駆け下りると
浄眼寺の脇にある登り口へ到着した。
この後は眼の前に見えている浄眼寺にお参りした後、阿射加神社(松阪市大阿坂町、小阿坂町)を巡った。
【 20140629AM の記録 】
- 白米城とも呼ばれる阿坂城跡(桝形山、阿坂山)
- 狛犬に出会えたお寺、浄眼寺(松阪市大阿坂町)
- 阿射加神社(松阪市大阿坂町)
- 阿射加神社(松阪市小阿坂町)