2015年02月21日(土) 冬季特別企画展「幕末・・伊勢の海防と山田奉行」(山田奉行所記念館) (徒歩)
山田奉行所記念館では,、次の通り冬季特別展が開催されている。
山田奉行所記念館冬季特別展
「幕末、伊勢の海防と山田奉行」
3月30日(月)まで 午前9時〜午後4時(火曜日は休館)
山田奉行記念館に到着すると
清掃していた女性に挨拶して門をくぐった。(入館料は無料)
入口から山田奉行所記念館へ向かう途中、左手には裁きの場である御白州が望める。
記念館の玄関へ向かうと
引き戸には特別展の案内が張られていた。
靴を脱いで館内へ上がると床の間の前に置かれている芳名録に記名した。
いつも特別展が開催される部屋へ向かうと
部屋の奥に説明書きが置かれていた。
(表)
(裏)
今回の企画展「幕末、伊勢の海防と山田奉行」は次の分類で展示されていた。
1.異国船の接近
2.山田奉行所の武備
3.海岸の検分
4.武術の訓練
5.神境防夷
6.砲台の構築
実際にはご訪問いただくこととし、ここでは簡単に紹介する。
【1.異国船の接近】
ここでは、欧米勢力が日本近海へ接近し、伝統的な鎖国政策を維持するために苦慮する幕府の状況が紹介されていた。
【2.山田奉行所の武備】
【3.海岸の検分】
海防のために大湊〜二見海岸、神前海岸が検分され、その後砲台が設置された場所が地図で紹介されていた。
【4.武術の訓練】
「神宮神職の剣術等修行につき山田奉行口達」および「師職の武芸につき山田奉行口達覚書」の写しが紹介されていた。
【5.神境防夷】
ここでは、神宮の神職さえも帯刀し武芸を習練することが求められる状況であったことが紹介されていた。
私は、現在の神職からは想像することもできないこの内容に衝撃を受けた。
「神境防夷」
この書は、伊勢神宮の神楽職を務めた井坂徳辰(1811〜1881)が書いたものである。ペリーが浦賀に来航した嘉永六年(1853)冬に、旅中で著したもので、神宮防衛論の中で最も早い。神宮を外国から守るための方策を具体的に記している。
幕府を恐れて公表しなかったのを、これを写していた射和の竹川竹斎が、安政二年(1855)幕府の勘定奉行石川政平、目付大久保忠寛らが、二見・鳥羽の海岸を検分したとき、随行員の中にいた勝麟太郎にこの写しを渡したとされている。この書は、前述のように、旅中での草稿で、帰郷の後、添削を加え、再度草稿としたものだと述べている。書中忌憚に渉ることを述べ、武門にあらずして兵道を論じたる条もあり、狭見の愚説識者の見る所を恥ずる故に、浄書を遂げず筺中に秘するものと書いている。
神境防夷の要点が抜き出して紹介されていた。
要点の一覧はこちら、
・万一、夷賊が神境に乱入したときには、ご神体を宮山の中、然るべき地に遷幸なし奉るよう準備すべきである。
・両宮を守らんにも、夷賊を打払うにも食糧が必要である。富有の人は、慮りを厚くして、力の及ぶ限り、 米穀を買い求め置いて、困苦を救う備えとなすべきである。
・異国船が志摩の沖に現れたら、ご遷宮のときのごとく、本宮の廻りに矢来を結うべきである。そして、矢来に沿うて渋紙数千枚を張り巡らすがよい。
・大湊は神境第一の場所なれば、砲台を構え、防御の備え厳重にするべきである。
・神境の防衛の要は、菅島・神島の両地にある。この島に大砲を備え、夷船を打ち砕かんことを計るべきである。
・神宮神職の輩は帯刀の身分なれば、武芸を習練すべきである。当冬、御奉行所より仰せ渡されたことはありがたいことである。
・棒、鳶口数千本を作り、会所に置き、期に望んで人夫などに渡せるようにすべきである。
・両宮を守るためには、人数の手配りが第一である。
また、壁には「幕末、伊勢の海防に対する山田奉行の対処、動向」の一覧が張られていた。
【6.砲台の構築】
最後には要衝地に設置された砲台について紹介されていた。
まずは現存する砲身についての紹介、
安乗神社の本殿前には鉄製砲身が保存されている。(志摩市指定文化財)
なお、その中央上面には、鳥羽藩主稲垣家の家紋抱茗荷が施されている。
ぜひとも安乗神社を訪れて確認したいものだ。
また、ほとんどの砲台が今は跡形もなくなっているが再現イラストや模型が展示され、具体的に思い描くことができた。痕跡はなくてもその場所を訪れてみたいと思させてくれた。
【今一色砲台】
今一色砲台
高城神社と高城保育園の間の標高8.5mの丘に、文久三年(1863)、津藩により造られた。
表土下約三尺までは赤土で、その下は砂地になっている、その赤土は三津から船で運ばれたと伝えられる。
明治二十二年(1889)の「二見郷七ヶ村明細図」によると、北辺約10m、南辺約80m、南北約75mの平面が六角形に近く、先端部となる北辺は、約6mで海に接している。(「三重の近世城郭」ほかによる)
【神前岬砲台】
神前岬砲台
神前岬のなか、最も東に突出している場所(海抜約10m)に、文久二年(1862)五月、津藩が構築した。
海際の断崖の端から1〜4mほどの、わずかにあった平坦地に土塁を築いたものと推察される。
規模は、北〜東辺18m、東〜南辺20m、東辺で北東から北西向きの前面の土塁は、幅が7m近くあり、高さ1〜2mほどの土壇である。北〜南西つまり山際にも13.5mの土塁が続いている。南隈から北西にのびる土塁は、幅2〜3m、高さ1.5mほどである。西隅が出入り口となっている。(「三重の近世城郭」ほかによる)
【大湊砲台】
大湊砲台
三角州大湊の最北端に、文久三年(1863)五月、津藩により造られた。台場遺跡は、確定した位置の設定を行なうための資料が現存しない。
台場跡を見たことのある人々の話を総合すると、施設の前面一帯は、低い砂丘が連なり、正面近くには細長い水たまりがあって、ひょうたん池と呼ばれていたという。この池の痕跡が現存しており、遺跡の位置はその北北西50mにあり、現在は海中である。高さ約3間の円錐台で、子どもの足では、その斜面をよじ登るのが困難であったという。(「三重の近世城郭」ほかによる)
【一色砲台】
一色砲台
一色町の北部、向崎、今の海岸線より290m内陸にあたる入浜塩田の州に、文久三年(1863)七月、久居藤堂藩が構築した。
東西34間余、南北20間の土地を買収、二見町三津の引船橋下流右岸の朝熊領不聞山から船で土地を運び盛土したという。盛土は巨船の船首を思わせる形で、下段は石垣を数段積み、杭、柵で二段重ねの中段盛土とし、その上に台場をつくった。後方はくぼみで隠蔽し、25度勾配の坂道の誘導路としたようである。大正十年(1922)耕地整理が終了するまで残存した。
【江村鮫川砲台】
江村鮫川砲台
二見浦の東端、賓日館の場所に、文久三年(1863)五月、津藩が構築した。
「江村地内字鮫川御台場絵図」(三重県史)には、海岸の松林の中に、海に向かって平面が台形の敷地をとり、中央に多角形の御台場がある。
「二見郷七ヶ村明細図」によると、北辺51m、南辺45m、南北27mの敷地が認められる。(「三重の近世城郭」ほかによる)
こちらは、江村鮫川砲台のイメージ模型。
【追伸】
実は、こちらで見学中にある方から声を掛けていただいた。芳名録に記した名前を見てピンと来たそうだった。その方は時々拙ブログにコメントを寄せてくださる方だった。いつもありがとうございます。
【 20150221 の記録 】
- 蕾が膨らみかけた臥龍梅(伊勢市御薗町新開)
- ご近所のお伊勢さん125社 河原神社(毛利神社を同座)
- 二木神社、お稲荷さん(伊勢市御薗町小林)
- 史蹟 山田奉行所跡から山田奉行所記念館へ
- 冬期特別企画展「幕末・・伊勢の海防と山田奉行」(山田奉行所記念館)
- 月夜見宮お白石奉献の上せ車、「月夜見尊」ねぶた飾り車ほか(宮後奉献団)
- お白石持行事の前日(月夜見宮)
- 遷座祭 栄通神社(伊勢市通町)