2015年05月16日(土) 津市美杉町の神社仏閣めぐり (車、徒歩)
今日は友人の高橋さんと津市美杉町の神社仏閣等を巡った。彼と同行して神社等を巡るのは「仙宮神社&お伊勢さん125社ほかめぐり」および「白鷺伝説七白山めぐり」に続き三度目だ。
【参考】
- 先週に続き再訪の仙宮神社、猿田彦命の体現(南伊勢町河内) 2014年12月21日
- 白鷺伝説 七白山めぐり 第二弾 のまとめ 2015年04月25日
いつもは単独行の私なのだが彼と巡ると多数の思いがけない出来事が発生する。仙宮神社では偶然にも宮司さんと遭遇し、七白山では八番目の白山比咩神社をお参りすることができた。などなど・・・。今回も二人の相乗効果でとんでもないことを体験ができた。最近はふたり旅もいいものだと思っている。
今回は彼が書籍「美杉秘帖」から訪れてみたい場所を洗い出して数カ所に絞り込んでくれた。巡ったのは次の通り。
(上多気)多気宿 → 津市美杉ふるさと資料館 → 北畠神社と庭園 → (下多気)西向院 → (上多気)武家屋敷(結城邸) → (川上)川上山若宮八幡神社 → (太郎生)國津神社、十三重石塔 → (三多気)真福院 [赤文字は 別の記事で紹介]
開館時刻である9時に間に合うように津市美杉ふるさと資料館へ向かうと10分ほど早めに到着しそうだったので、その手前にある上多気常夜燈および「すぐいせ道」道標付近に駐車して多気宿をしばし散策した。
【多気宿】
伊勢本街道 多気(たげ)宿 三重県津市美杉町
多気は険しい山々に囲まれた小盆地で、東西に延びる伊勢本街道と南北に丹生俣から下之川、松阪に出る街道が中央で交差する交通の要所でした。タゲはタギルと同じ意味で、水が激しく流れるところを表しています。
うねうねとした急坂を下ると、立派な階段上の塀が印象的な民家に続いて、風情ある家並みに入ります。八手俣(たてまた)川にかかる大橋の右手前に「すぐいせ道」裏面に「すぐはせ道」と自然石に深く大きく彫られた見事な道標があり、向かいには高さ約5メートルもある常夜灯が建っています。いずれも江戸末期のもので、「すぐ」は「近く」ではなく、「直進すること」を意味しています。
伊勢本街道が参宮のメインロードとして一般に利用され始めたのは、南北朝以後。北畠氏がこの地に本拠地を移して、伊勢と吉野や奈良、京都を結ぶ軍用路を整備したことによります。大橋の手前を左に折れて、川沿いに10分も歩けば、国司館の跡に建つ北畠神社があります。神苑には、野性的で豪壮な石組みが特徴で、国の名勝史跡に指定される室町時代の武家庭園が残されています。
伊勢本街道を活かした地域づくり協議会
風景街道「伊勢街道」連絡協議会
常夜燈、「すぐいせ道」道標および大橋を背にして伊勢本街道を飼坂峠方向へ進むと
立派な階段上の塀が印象的な民家。
来た道を下ると右側には水場の跡があり、
その下方には木造三階建ての家がある。
さらに風情ある家並みが続き、タイムスリップできる。
【参考】
旧三木屋跡を右手に見ると
「すぐいせ道」道標へ戻った。
(後で知ったことだが、大型重機に衝突されて破損したこの道標は修復を終えていまも健在だった。写真を拡大して確認したところ、「ぐ」の字の上部に亀裂を確認できる。)
道標の左手には高さ約5メートルの常夜燈。
車に乗ると八手俣川に架かる大橋の手前を左方向へ進み、津市美杉ふるさと資料館へ向かった。
【津市美杉ふるさと資料館】
現在は入館料は無料。開館直後だったからか? 見学者は私たち二人だけ。
玄関を入り、管理人さんに挨拶すると左方向にある展示室へと向かった。
その途中には、伊勢国司北畠氏の居所で多気御所と呼ばれた北畠氏館の想像復元模型が展示されている。
こちらは、先ほど見かけた旧三木屋跡の往時の写真だった。(手前が大橋)
展示物は興味深いものが多い。
神皇正統記の「一番古い写本は現在、石川県白山比咩神社に保存され重要文化財に指定されている。」こんなとこにも前回巡った七白山に関連する情報が出てくるとは・・・
資料館を後にする前、高橋さんが武家屋敷(結城邸)の所在について管理者の方に伺ったところ、私が以前通ったことがある場所だった。彼の希望と私の経験がタイアップしてとてつもないことが起こってしまった。(詳細は後で・・・)
津市美杉ふるさと資料館を出るとすぐ近くに鎮座する北畠神社へ向かった。
【北畠神社】
JAの前に駐車すると朱塗りの鳥居をくぐった。その先には霧山城への登山道と参道が左右に分岐しているので、右へ進んだ。(いつかは左へ向かい霧山城に立ってみたい!)
左右からの参道の中央付近にこの鳥居が建っている。
手水を受けてからお参り。
こちらが由緒書き。
北畠神社由緒(旧別格官幣社)
祭神 従一位右大臣 准后 北畠顕能公 配祀 北畠親房公(父)北畠顕家公(兄)
例祭日 十月十三日
建武中興の偉業は半ばにして破れ、後醍醐天皇は三種の神器を奉じて吉野山に仮の皇居を設けられた。時に延元元年(1336)十二月。以降五十七年間を世に南北朝時代と言う。
北畠親房は学徳衆に優れ、天皇の信任篤く、常に側近に在ったが動乱に際して自ら陣頭に指揮をとり、足利勢と対決した。大楠公以下諸忠臣相次いで戦没し、長子の陸奥守鎮守府将軍顕家も亦、延元三年五月弱冠二十一才で阿倍野(大阪市)の露と消えた。
神皇正統記は親房が常陸國の戦陣において筆を執ったもので、国体の本義を明らかにして、南朝の正統を天下に宣言し、後世に大きな影響を与えた史書である。
顕能は興国三年(1342)に戦略上の拠点としてこの地に霧山城を築き伊勢国司に任ぜられた。この位置が当時の居館の跡である。館は多気御所または北畠御所と呼ばれていた。
その生涯五十八年のうち、実に四十五年の歳月は南朝護持のために捧げられたものである。大小の合戦六十数回、二度までも京都を奪還した功績は偉大である。南朝方の大御所として、後醍醐、後村上、長慶の三帝に仕えて忠誠をつくした。弘和三年(1383)七月廿八日多気に没す。以降九代二百数十年に亘って、伊勢国司は一志・飯南・度会・志摩の南勢五郡と紀伊、伊賀、大和に及ぶ領域に善策を布いたが、天正四年(1576)十一月、天下制覇を狙う織田信長の謀略により、具教は三瀬の館(多気郡)に於て殺され、北畠氏は滅亡した。
寛永二十年に一族の末裔鈴木孫兵衛家次この地に小祠を設けて北畠八幡宮と呼び村人の尊崇を受けつつ幕末に至った。昭和三年十一月天皇御即位の大礼の日に別格官幣社に列せられたが終戦とともに廃せられた。霧山城跡 標高560m、遙かに吉野連峰を望む。昭和十一年国の「史跡」に指定せらる。(美杉村所有、管理)
北畠氏館跡庭園 享禄元年(1528)管領職細川高国の作と伝う。当代庭園中三名園の一に数えられる。昭和十一年国の「名勝」及び「史跡」に指定せらる。
また、拝殿の右側には次の通り、後醍醐天皇と忠臣を祀る神社十五社が紹介されていた。
いつも気になるのが拝殿の入口上部に配されているこの天狗の面。
境内を奥へと進むと
【参考】
- 上多気常夜燈〜(北畠神社)〜多気宿 町屋(津市歴史健康ウォーク 美杉コース) 2013年10月06日
このあとで庭園を拝観したのだが、詳細については別の記事で紹介する。なお、独りならおそらくゆったりと庭園を拝観することはなかっただろう。ここでも二人で巡っているメリットが発揮された。
【西向院】
続いて向かったのが下多気にある西向院。
道路を挟んだ広場が専用の駐車場となっている。車から下りて山門へ向かった。
山門をくぐると
その正面に本堂が建ち、
なお、本堂には「木造阿弥陀如来立像」が安置されていることが記されていた。
【東御所跡、雪姫桜】
西向院から武家屋敷(結城邸)へ向かう途中に、以前に訪れたことのあるる場所へ立ち寄った。
【参考】
上多気常夜燈〜(北畠神社)〜多気宿 町屋(津市歴史健康ウォーク 美杉コース)
そこは東御所跡、雪姫桜付近だった。
この先に赤い御垣の中にまつられるのが雪姫桜。
そのいわれはこちらだ。
近くから北畠神社方向を遠望!
【武家屋敷(結城邸)】
雪姫桜に続いて訪れたのが武家屋敷(結城邸)。こちらの前で通りかかった女性に武家屋敷の所在を確認するとここの家だとのこと。(あとで分かったことだが、この女性は現代にまで伝わる結城三家のひとつで、街道沿いにて旅館 結城屋を営んできたもうひとつの結城家の方だった。)
その女性がこちらの奥へと入り、しばらくすると奥様を連れて出てきて、私たちを紹介してくれた。(とはいえ私たちは二人の女性とは全くの初対面)。奥様に武家屋敷について伺っているとご主人も現れて話が盛り上がった。結城家は二十数代と続く名家で、紀州藩にも金を貸していたが返してもらっていない。など・・・
しばらくは庭先でだったのだが、私たちの武家屋敷を拝見したい気持ちを察していただいたのだろう。武家屋敷である母屋から殿様を迎え入れるために急遽建築された離れを見学させてくださった。
母屋にて「どちらから?」と奥様に問われた時、名乗っていない無礼に気付いた。話に夢中になり、お言葉に甘えて・・・の状態だったので周りが見えてなかったのだろう。急いで無礼を詫びるとともに名を名乗った。
母屋からシュロの柱が列ぶ渡り廊下を進むと
離れへ・・・。離れでは様々な興味深いお話を伺った。その一つは家来の部屋には天井に家来が座る位置が示されていることだった。天井には四人分の黒い線が配置されていた。
離れや母屋での見学を終えると奥様がコービーを入れてくださった。神宮のお白石持行事についてご主人との話が盛り上がっていた時、偶然にも腕時計が目に入った。「えっ、もう12時半前!」、こちらにお邪魔してからすでに1時間半が経過していた。長居を詫びるとともに感謝の言葉を述べると武家屋敷を後にした。再訪したい場所となった。(結城ご夫妻に感謝!)
名残惜しみつつも結城邸を後にした。
【その他の結城家】
なお、先ほどの結城家のご主人によると、この地で「結城」の名が残っているのは三家のみで、先ほどのお宅と伊勢本街道沿いに建つ旧「旅館 結城屋」、その向かいにある「民宿 なかや」だった。道の駅「美杉」へ向かう途中に確認。パチリ、パチリ。
旧「旅館 結城屋」
「民宿 なかや」
【参考】
【道の駅「美杉」】
武家屋敷を後にすると道の駅「美杉」にある
ベンチで遅い昼食となった。
昼食を終えると本日の主要な目的のひとつであった川上山若宮八幡神社にお参りした後、奈良県を経由してから再び三重県へ入ると太郎生にある國津神社へ向かった。川上山若宮八幡神社については別の記事で紹介する。
【参考】 川上山若宮八幡神社(津市美杉町川上)
【國津神社、十三重石塔】
津市太郎生のSANCO 瑞穂 バスのりば付近に駐車すると
すぐ近くに鳥居が見える國津神社へ向かった。鳥居前に到着すると路線バスが通過した。
國津神社の鳥居をくぐると石階を上り、手水を受けると
石階のその正面に建つ拝殿へと向かった。
お参り。(拝殿の先、本殿へと続く石階が印象的だった。)
賽銭箱の前で見上げるとここにも天狗の面が掲げられていた。
本日、北畠神社、川上山若宮八幡神社に続き、三ヶ所目だ。
拝殿の左側に続く階段を進むと先ほど拝殿から覗いた石階を側面から確認することができた。かなりの斜度だ。
続いては拝殿の手前右側にある十三重塔と弥陀三尊 種子碑(塔の右側)を拝見した。
国指定重要文化財建造物
国津神社 十三重塔
大正十五年四月十九日指定
以前、太郎生日神不動前の山王権現社境内にあったが、明治四十年山王社合祀の際、現在の国津神社に移された。十三重塔としては小型であるが、塔身四面にはそれぞれ薬師・阿弥陀・釈迦・弥勒の四仏を配し、その整った形や屋根の力強い曲線などは、鎌倉時代の特徴をよく表している。
総高3.3mで、石材はこの地方で多く使用されている地元産出の大洞石(おおぼらいし)と呼ばれる溶結凝灰岩で造られている。石造美術の宝庫と言われる美杉村にあって特に優れた作品である。
津市教育委員会
(現在、美杉村は津市美杉町)
十三重塔付近から眺めると境内の隅にはケヤキの大樹がそびえ立っている。
その根元に立つのがこの説明板。
県指定天然記念物
国津神社のケヤキ
昭和十五年九月十六日指定
この大ケヤキは、地表に現れた根回り19.6m、樹高30m、胸高周囲約7m、枝張り東西約25m、南北約16mの大木である。樹齢800年以上と伝えられ。県下のケヤキの中でも最もふるいものの一つと言われている。また昭和五十五年度全国植樹祭のお手蒔き用として、この種子を献上された由緒あるケヤキである。
津市教育委員会
そして、最後に向かったのが三多気にある真福院。三多気の桜を見学に来た際に立ち寄ったことがある場所だった。
【参考】
- 会式、御餅つき(真福院) 2012年04月14日
前回は、さくら名所100選の地「三多気」の碑がある駐車場に車を駐めたが、今回はナビに誘導されるままに車を走らせていたいたところ急な坂道を登りきってこんなところまでやって来てしまった。
【真福院】
駐車場にて車を降りてからパチリ。
すぐ近くの駐車場から参道へと進むと
右手には弘長供養碑ほか。
少し荒れた感じの石階を進むとこの場所に到着。なんともいい雰囲気だ。
さらに進むと緑色の環境光に照らされた朱塗りの山門が出迎えてくれた。
山門をくぐるとその前方にはさらに石階が続いていた。
石階の手前には「木造 蔵王権現像」と「精進祭」の説明板があった。
石階を上ると本堂にお参り。本堂にて蔵王権現像を拝観できることを期待したが、それは叶わなかった。本土の周囲にまつられている石祠をもお参り。
こちらは本堂から少し離れた場所にあった近畿自然歩道の道標だった。それにしても道標の後ろ側に立つ4建物4棟はなんだろう?
一日長いようで短いふたり旅も終わりとなり伊勢への帰路についた。
今日も楽しく、興味深い、今後につながるふたり旅となった。
【 20150516 の記録 】
- 津市美杉町の神社仏閣めぐり
→ 名勝史蹟 北畠氏館阯庭園(津市美杉町上多気)
→ 川上山若宮八幡神社(津市美杉町川上)