2014年10月19日(日) 大斎原付近の熊野川、産田社ほか (車、徒歩)
熊野本宮大社への参拝を終えると鳥居の前にあるこの案内板を見つけこの矢印に従った。
横断歩道を渡ると左手にはこの道標。まっすぐ進めば大斎原(おおゆのはら)へ続いている。
時刻は12時を過ぎていたので、昼食代わりに持参した焼き芋を食べるため先ほど車を駐めた世界遺産熊野本宮館北館と南館の間を進み熊野川の堤防道路へ出た。
熊野川の河川敷は臨時の駐車場となっていた。
堤防道路の脇に腰掛けるとパクリ、
パクリ。
後で大斎原を訪れてわかったことだが、大斎原はもちろんのこと大鳥居も撮影禁止となっていた。先ほど訪れた熊野本宮大社の神門内と同じ扱いなのだろう。(それを知らずに撮影してしまった写真は封印した。)
熊野川の河川敷から熊野本宮大社の方向をパチリ。
さらに大斎原へ続く参道をパチリ。
こちらは、大斎原の参道から少し外れた場所に祭られている産田社。
高い所からで申し訳ないがパチリ。
軽食を終え世界遺産熊野本宮館へ戻ると
駐車場の脇にある周辺まっぷで確認してから大斎原への参道を進んだ。
ここで左へ進めば産田社。直進(下の写真では右方向)すると大斎原の大鳥居へと通じる。
大斎原も大鳥居も撮影禁止となっていたので、お参りを終えてから大鳥居をくぐり返した後にパチリ。
それにしてもネットで検索すると大斎原の大鳥居はいろいろなところで写真を目にすることができるが、どれだけの人が許可を得ているのだろうか?
こちらは許可を得ていると思うのだが、GoogleMapsのストリートビューでは大鳥居をくぐり、大斎原に祭られている二宇の小祠にも(バーチャルに)お参りできる。
【参考】
大鳥居からの参道を戻ると田んぼが切れた付近で右方向へ進み産田社に向かった。
社号標の隣には「産守り」についての案内板があった。
産守(うぶまも)り
八百万の神々を始め、総てを産みだされた産土の神と仰がれる産田社に鎮まります伊弉冉尊(いざなみのみこと)の荒御魂の御力を受けられる「産守り」は、熊野本宮大社でお頒かちしております。
お参り。
こちらも石祠だ。
大斎原を訪れて初めてその存在を知った産田社。本日、元々の予定では、熊野市に鎮座する産田神社にお参りして第2回花の窟錦の御幡献上行列を見学するはずだった。ところが突然の計画変更で熊野本宮大社および大斎原を訪れることになった。産田神社はイザナミノミコトが火の神カグツチノミコトを産み落とし陰部を焼かれて亡くなった場所である。ここは「イザナミノミコト」でつながった。
帰宅後にネットで調べていると、「み熊野ねっと」なる素晴らしいサイトを見つけた。
【参考】
こちらのサイトによると
また「崇神天皇の夢見により、ここに祀られていた神様を熊野川・音無川・岩田川の合流点にある中洲に移したのが熊野本宮の始まりだ」とする伝承もあります。江戸時代までは、産田神社と熊野本宮大社では、同じ巫女舞が伝承されていたとのこと。
とあり、産田神社と熊野本宮大社とのつながりの強さが紹介されていた。
また、先週までは内宮の別宮である月讀宮に並び祭られている伊佐奈彌宮の遷宮を追いかけていた。
【参考】
産田神社、産田社、伊佐奈彌宮のすべてが「イザナミノミコト」つながりである。何も意図せずに熊野本宮大社および大斎原を訪れたつもりであったが、実は「イザナミノミコト」に導かれていた。これは偶然ではなく必然であったと思えてならない。
産田社を後にすると世界遺産熊野本宮館の駐車場へ戻り、
熊野本宮を後にした。
この後、新宮へ戻ると神倉神社へと向かった。
【 20141019 の記録 】
- 熊野本宮大社および祓殿王子社跡
- 大斎原付近の熊野川、産田社ほか
- 神倉神社、急峻な石段と御神体であるゴトビキ岩
- お白石持行事の準備が進む瀧原宮への奉曳ルート