2017年11月25日(土) 「そこに、西行がいた!! 2017」ウォーク「ヤマトヒメラインをあるく〜二見エンサイクロペディア・中井利亮さん事始め〜」 (車、徒歩)
「そこに、西行がいた!! 2017」のウォーク企画に参加するために賓日館を訪れた。
伊勢市二見町では「そこに、西行がいた!!」なる企画は毎年続けられているが、ウォークでは訪れる場所も限られるためルートがマンネリ化をしてしまうのは避けられない。そのため今年は一風変わったテーマでのウォークが実施された。ブラタモリ伊勢編の案内人を担当した中京大学の学芸員である千枝大志さんが案内人となりイベントの主役である西行とはかけ離れていると思われる(実はそうではなかったが)テーマ「ヤマトヒメラインをあるく〜二見エンサイクロペディア・中井利亮さん事始め〜」だった。私にはこのテーマの意味を理解できなかったが、知人である千枝さんが新しいネタをたくさん仕込んでるとのことだったためその言葉に惹かれて私も参加することになった。
2時間を予定していたウォークでは前半の1時間が賓日館での座学(プチ講演)に当てられた。
その意図は次の通りである。千枝さんはブラタモリで案内人を担当することによりブラタモリ的なまちぐりの方法を理解した。また自らが実施したブラッチェiseや名古屋等で参加している各種のまち歩き体験から歩きながら現地で説明しても一部の人にしか伝わらずあまり効果がないこと、最近のまち歩きイベントの傾向は、案内人がガチガチに説明して回るのではなく参加者が自らで疑問を発見しその疑問に詳しい参加者が解説するような参加者全員で作り上げるゆる〜いタイプにあることを体感した。そのためフィールドに出る前に必要な情報の伝達は済ませて置くことに。
ところで、なぜに千枝さんが今回の案内人に選ばれたのか? その真相は不明だが本居宣長記念館に勤務していた頃からの飲み友でもある松阪○○資料館の藤田さんから強烈な(?)オファーを受けたそうな?
断る理由はないが今回のイベントの主役である西行の研究家でもないし、先に紹介したように今さら西行では歩けない。どうしようかと悩んでいた時、白洲正子さんの著書「西行」に光明を見つけた。白洲さんはこの本を著すために現地である二見を訪れ詳細に調査していたようで、どうやらその案内を担当したのが今回のウォークのテーマとして取り上げた中井利亮さんであることに気づいたそうだ。つまり、西行イベントでありながら西行とは異なる切り口、しかし西行と大いに関連するテーマを見つけたのだった。中井利亮さんは二見浦が日本最初の海水浴場であったことを論文として発表し二見町史を編著するほどの力量のある郷土史家であった。また広報ふたみや二見興玉神社の社報などに多数の文を寄せるなど目立ちはしないが地道に根拠を持って郷土史を深め二見の生き字引となっていた。そして彼の死後、家族の手により発行されたのが「ヤマトヒメ・ラインを走る: 中井利亮遺稿集」だった。
千枝さんは中井利亮さんへのオマージュとして今回のウォークのテーマを「ヤマトヒメラインをあるく〜二見エンサイクロペディア・中井利亮さん事始め〜」と定めたとのことだった。
しかし中井利亮さんは生粋の郷土史家ではなく早稲田第一高等学院在学中に宇治山田中学校の同窓生であった竹内浩三さんと同人誌「伊勢文学」を創刊し、その後も詩人としての作品作りはもちろん編集者、査読者、イラストレータなど文学青年の時代を過ごしていた。今回の座学(プチ講演)では同じ会場で開催されていた竹内浩三研究会の参加者も本講演を聴講しており、詩人 竹内浩三さんと中井利亮さんのとても親密な関係性が語られた。
このように仲間と作り出す文学に没頭していた中井利亮さんがなぜに郷土史家への道を歩んだのか、その理由は戦争体験にあった。大切な人々を奪い去った戦争、その原因は実は伊勢にありその理由を知るためには古代史さらには地域を知ること、郷土史研究へとつながった。小説を書きたいが時代を考証することが優先されたのだろう。そして、これらの積み重ねが「ヤマトヒメ・ラインを走る」につながったと・・・
タクシー会社の社長を勤めながら郷土史研究に尽力しながらも目立つこと無く裏方に徹していたそうだ。
本来「名士」とは中井利亮さんのような方のことだろう。まずは二見町史を読みたくなった。
中井利亮さんが文学青年から郷土史家へと転身した理由に目を潤ませる方もいたほどに千枝さんの語りに聞き入った座学の会場を後にすると、後半のウォークが開始された。
まずは賓日館の前に立てられている
二見浦浴潮場石表銘が紹介された。(日本初の海水浴場、実はほかにも大磯等も日本初を主張しているそうだ。)
その後は二見町のまち歩きとなった。まずは
軒丸瓦の形状により時代を判別する方法が紹介され、続いては瓦によっては製造者の銘が記されていることも。
ここで瓦に注目してしまうと参加者の目は常に瓦に・・・
ここでも・・・
ここは旧道と新道が交差する場所(五十鈴勢語庵さんの近く)。今回の主催者がウォーク用に準備してくださった時代を超えた各種の地図はA4の両面に配されてラミネートサれていた。これなら雨に降られても全く問題なし。便利な古(小)道具だ。
その交差点から旧道へ入ると参加者の皆さんは新鮮な様子だった。(なお、私は何度も歩いていたが発見が多い)
ここでも瓦に注目。
こちらは旧百五銀行。
こちらは旧二見町役場。昔はここがメインの通りだったことが想像できる。
旧二見町役場の脇から路地の先を眺めるとその先ではウォークに参加する前にお参りした堅田神社(皇大神宮 摂社)が鎮座している。
さらに歩を進めるとこちらは中井利亮さんの自宅だった。
突き当りでクランクになっているが、反対方向の路地へ入るとここでも瓦論議を。
結局、今回のウォークで見つけた瓦の製造者は次の通り。
オヤシキ 山下
フキアゲ ^佐 (佐の上に^)
二見三津 ^ツ (ツの上に^)
^ク (クの上に^)
○治 (○の中に治、上下反転)
子ヲキマツ ^安 (安の上に^)
二見三津 中村
クロセ ¬ モ (¬ 差し金の下にモ)
クランクに戻りクランクを過ぎて新道と交差するところには旧二見小学校(二見尋常高等小学校)の校門跡がある。
以前からこれは何だろうと疑問に思っていたが、謎がひとつ解けた。
ここからは新道を戻ると
旅館街を・・・
こちらは中井利亮さんが社長を務めていたタクシー会社(参宮自動車有限会社)があった付近。
さらに賓日館の方向へ戻ると
いつも気になっている木造3階建ての建物をパチリ。脇にある階段がとても興味深い。
またしてもこちらで
瓦に注目。やはり、本日のウォークでは瓦が主役となっていたか・・・
こちらは大谷石の塀。千枝さんが栃木県出身なので大谷石にまつわるエピソード等の披露も。
屋根の上にじっとしている瓦製の鳥にも注目。やはり瓦だ!
そして旧道と新道が交差する場所(五十鈴勢語庵さんの近く)まで戻ってきた。この場所のように新道と旧道が交わる場所は昔と今との変化がわかる絶好の場所であることが説明されると今回のウォークは終了となり
賓日館へ戻った。
本日のウォークを終えると「こんな歩き方したことなかった!」と参加者だけでなく、主催者までもが今までとは全く異なる視点でのまち歩きに驚いていた。
例えば円錐でも視点を変われば丸が三角に見える。さまざまな視点を生み出せばありふれた町が宝の山になることもあるのだろう。だから、まち歩きは止められない。