2014年07月12日(土) 泥搭が発見された「野添大辻遺跡(第3次)発掘調査」現地説明会(度会郡大紀町野添) (車、徒歩)
三重県庁新着情報配信サービス「みえエクスプレス」にて次の情報が届いた。
度会郡大紀町野添で発掘調査が進められている野添大辻遺跡(第3次)にて室町時代の集落跡から『泥搭(でいとう)』が発見され、現地説明会が開催されるお知らせだった。
野添大辻遺跡は宮川ウォーク・右岸の第3区間を歩いた際に通りかかった場所だった。
【参考】
ところで『泥搭』とは何なんだろう? この疑問に終始し説明会に参加せずにはいられなくなった。
説明会の開始は10時半だったが一時間も前に現地に到着した。それでもすでに数名の見学者の姿があった。受付を済ませると次の資料を受け取り、まずは見学者が少ない間に全体像を掴むことにした。
野添大辻遺跡は、宮川右岸の台地上(標高約65m)にある縄文時代と中世(鎌倉〜戦国時代)の集落跡です。
野添大辻遺跡の周辺には、樋ノ谷(ひのたに)遺跡(大紀町神原:このはら)や野手(のて)遺跡など縄文時代早期〜中期の遺跡、粟生城跡(大台町粟生)や奈良井城跡(大台町高奈)などの中世城館が見られます。
また、遺跡のある野添地区には伊勢神宮から滝原宮、熊野へと至る脇海道「熊野脇道」(滝原道)が通過しています。
これまでの調査成果は、2012年度に縄文時代早期(約1万年前)の竪穴住居や炉穴、縄文土器や石器が数多く見つかりました。2013年度には室町時代の掘立柱建物や道路が見つかり、熊野脇道沿いの集落の姿が明らかとなりました。
調査区の全体図はこちらで、1区〜3区に分割され、すでに1区と2区の調査が終了していた。
第3次調査(2014年度)では、室町〜戦国時代の掘立柱建物や石組の井戸などが見つかりました。出土品には、その時期の土師器(鍋や皿)、陶器(壺や天目茶碗)などがあります。
特に、泥塔が柱穴と考えられる小さな穴の中で立った状態で発見されたことが注目できます。
泥搭は、長さ8.8cm、幅3.5cmの舟形の土製品(舟形光背偏平宝塔型泥塔)で、粘土を型に押し当て仏像や等を立体的に表現しています。全体に細かな表現がされており、仏像には二重光背や蓮座、塔には水焔か火焔、相輪、宝鎖、風鐸などが見られます。
県内での発見としては、寺院の伝世品などを含めて9例目となります。この内、発掘調査で埋納された状況が明らかとなったのは2例目となり、もう1例は伊賀市将軍塚1号で石に囲まれて出土したものがあります。県外でも愛知県愛西市、京都府笠置町、奈良県桜井市・高取町などで発見されています。寺院や経塚といった仏教に関わる場所で発見された例が目立ちますが、発掘調査で出土状況がわかるものは多くはありません。
泥搭には、厄除祈願、息災延命といった祈りが込められていたと考えられています。また、泥搭の形は地域によって異なり、今回の発見されたものは奈良県から三重県にかけて見つかっているものに類似します。泥搭からは、当時の人々と仏教の関わりや、地域間のつながりを考える手がかりが得られます。
説明会が開催される前に全体を把握するため、受付のテントから遠い場所、北東の隅へ移動。南西方向をパチリ。手前にあるのは1区だ。まだ、説明会は始まっていないので調査区へは入らずに道路上から確認した。
こちらは1区の石組井戸。
こちらは、泥塔が発見された柱穴跡とともに建物を支えていたと思われる掘立柱列。
広い土坑の隣には
焼土が多く含まれる土工があった。
こちらだ。もしかしたら泥搭はこちらの穴で野焼きされたのかも知れない?
調査区の1区付近から2区方向を望んで、パチリ。
こちらは2区で奥には掘立柱建物の跡、黄色い紐で囲われている。
さらに、3区方向へ移動してパチリ、パチリ。小さな穴が多数ある。
そして、3区の端、宮川ウォークで歩いた際にも撮影した工事看板。またもやパチリ。
説明会の開始までまだまだ時間があったので、周辺を散策してから受付のテントへ戻ると多数の見学者が集まっていた。
私も仲間に入れてもらってパチリ。
今回の出土品の目玉は「泥塔」であるが、その他にも土師器の鍋、小皿、陶器の壺、天目茶碗、青磁碗などがあった。
こちらは土師器の鍋。
土師器の小皿。
青磁碗、
高台部分には花の模様が装飾されていた。
そして、こちらが訪問の第一の目的である「泥搭」。
その他・・・。
どんどん見学者は増えてきた。
まだ、始まらない様子だったので、「泥搭」が発見された場所を再確認した。1区の中央畑よりの場所。
子供が歩いている杭のこちら側、
パネルが準備されている手前の柱穴の跡の中に直立した状態で見つかったそうな。
しばらく、調査を眺めていたら説明会が開催される気配を感じたので、急いで受付のテントへ戻った。
ほどなく現地説明会は開始された。概要の説明の後、調査区内へ移動。
調査区の2区へ足を踏み入れると遺跡での説明が開始された。
1区には遺物の出土が多いが、2区では少ない。この穴は大きな木が倒れた跡だろうか?
また、この調査区には多数の穴が見られるが、小さいものは杭を打つため、大きなものはゴミ捨てに使われたとのこと。
掘立柱建物については、遺跡からは柱の配置はわかるものの遺跡だけでは上部は再現できない。そこで利用されるのはこのような資料。
強い日差しが照り付けるなか、多数の見学者がじっと・・・。
次に大きな石が2つ置かれている用途不明の土坑へ移動。大きな石は30kg以上あり発掘時にはこの場所にあったとのこと。この穴の目的は不明。なお、斜めに走る溝は土質を調査するために人工的に掘ったもの。
続いて2区の端、1区よりにある掘立柱建物跡へ移動。2間×3間の建物だ。隅に井戸も見られるので生活の中心であったかも知れない。
次に、2区から1区へ移動。
こちらは焼土(赤い土)が多く入った土坑。これは何かを焼いた跡、隣から発見された泥搭はここで野焼きされたのかも知れない。
そして、ここは泥搭が発見された柱穴のである。
この柱穴は、土坑を挟む掘立柱列と一体のものであると考えられる。
すると、ここにあった建物が潰した際に建物の柱穴跡に泥搭を立てた状態で納めた。それにちなむ建物だったか?
続いては1区の端。そこには石組井戸がある。
そこはもっと深いがすでに水が浮いていた。
実際はこんな感じか?
ひと通りの説明が終了し、受付のテントへ戻る前に3区へ移動した。
こちらが3区。こちらは表土が剥がれただけの状態で発掘調査はこれからだ。
3区では簡単な発掘方法の実演が行われた。
以上で現場での説明が終了すると出土品の説明へと移った。
受付のテントの下へ移動すると先にも紹介した出土品について説明が始まった。
そして、こちらが「泥搭」。
「泥」の名が付いているが、焼成されているので十分に固く自由に触ることができた。先の説明にもあるように表現が詳細である。
さすがに、人気の出土品だった。
こちらは資料。
また、今回の出土品ではないが、前回第2次の現地説明会が終了してから出土された風炉も展示されていた。風炉についてはまだまだ調査すべきことが多いようでとても興味深い。