2016年03月21日(月) 第28回かどや塾 歴史ファン必見!「足代弘訓の足跡とかどやに残る和歌を紐解く」 (車、徒歩)
本日鳥羽を訪れた一番の目的は、第28回かどや塾に参加するために鳥羽大庄屋かどや(旧廣野家住宅)を訪れることだった。
鳥羽 市民の森公園の駐車場からこちらの「鳥羽大庄屋かどや駐車場」へ車を移動させるとここから歩いてかどやへ向かった。
かどやの前には
【参考】
本日のかどや第28回かどや塾の看板が立てられていた。
三月二十一日(月・祝)13:30〜15:00
第28回かどや塾 歴史ファン必見!
「足代弘訓の足跡とかどやに残る和歌を紐解く」江戸時代後期の国学者で歌人の足代弘訓の足跡とかどやとの関わりやかどやに残された和歌について三人の講師が熱く語る歴史ファン必見プログラムです。
講師:野村史隆・千枝大志・橋本佳代
私がこのかどや塾に参加したのは、次の3つの理由からだった。
- 3月6日に伊勢河崎商人館 角吾座で開催された『新・蔵くら談義XII「伊勢河崎商人館を活かした地域活性化」』で第28回かどや塾の開催を知った。
- 講師のひとりが千枝大志さんだった。
- 以前にかどやを訪れた際に目にした襖の(足代弘訓による)和歌を読み解く企画だった。
【参考】
- 新・蔵くら談義XII「伊勢河崎商人館を活かした地域活性化」(角吾座) 2016年03月06日
- 国登録有形文化財 鳥羽大庄屋かどや(旧広野家住宅) 013年09月07日
かどやを訪れると足代弘訓による和歌は表装された襖のある座敷(廣野籐右衛門の座敷)が会場となっていた。
定刻が近づくと資料が配付され、
廣野家の当主である廣野克子さんが開会を宣言し、講師の3名を紹介した。
講師は鳥羽市市文化財専門員の野村史隆さん、中京大学 学芸員の千枝大志さん、かどや保存会会員の橋本佳代さん。
講演の概要は
- 野村史隆さん: かどやが貴重な資料の宝庫であることの気付きと足代弘訓との関係について
- 千枝大志さん: 国学とは、足代弘訓とは、足代弘訓と廣野籐右衛門の関係について
- 橋本佳代さん: 廣野家に残されている足代弘訓による和歌の読み解き
であった。
野村史隆さんは約10年前に旧廣野家住宅が鳥羽市に寄贈された際から調査を担当している。最初に本宅と蔵で調査し、歴史と価値を世に早く知らせるために文書の調査を急いだとのことだった。ひとつひとつ番号を付けて調べるにつれ、かどやには貴重なモノが眠っていると感じたそうだ。
そのあたりの様子は、かどや通信 第1号の3ページにも紹介されている。
【参考】
- かどや通信 第1号(2013.03) (PDF)
また、発見された廣野家の家系図には六代目の廣野籐右衛門氏が足代弘訓の門人となったことが記されていた。
このようは 野村史隆さんの起を受けて千枝大志さんがまくし立てた。
詳細については思い出せない部分も多いので、概要を・・・
足代弘訓は足代権大夫の御曹司だったが松平定信による寛政の改革では山田羽書にテコ入れが入り、不良な羽書を扱っていた父が座敷牢へ投獄されてしまった。足代弘訓は不遇な時代を過ごした・・・。の前振りにより始まり、
国学者である弘訓を語るには、国学について知る必要がある。端的に言えば、国学とは大学で言えば総合大学で、日本に関わる「語学」「歴史」「歌学」「神学」「教育」を網羅的に身に付けるためのものである。
さらには師事した本居宣長や平田篤胤、本居春庭、大平についてそれぞれの関係や個性が語られ(その内容はうまく説明できないので省略)
その間にも足代弘訓がネットワークの達人であることを示すため、北海道の名付け親である松浦武四郎や現在は伊勢河崎商人館となっている旧小川家の小川宗徳らとの関係も紹介された。
千枝さんの熱い話(私の説明では熱さは伝わっていないと思うので機会があればぜひ彼の講演を聴いてください。)が終了すると小休止となった。
内蔵の前を通って中庭へ出ると
トイレを借りてからパチリ。
千枝さんと立ち話していたら、最後の講演が開始されていた。
内蔵の前から台所へ戻ると「お茶をどうぞ!」とお誘いいただき、ここでも一休み。
会場へ戻ると説明はどんどん進んでいた。
橋本佳代さんは万葉集にも造詣が深く、かどやの襖に書かれた足代弘訓の和歌を紐解くためにお正月の三が日もなくこの襖に向き合った(?)とのことだった。襖に書かれた和歌を読みながら、その内容が説明されると臨場感あふれる世界へと惹き込まれた。
これは
「うめの花ほほえむ春になりにけり
柳のまゆもいまひらくらん」
の説明で、万葉集や
源氏物語を引き合いに出して、弘訓が古典を身につけている(知っているだけでなく使える)ことを説明。
その他、中国の古典である漢籍にも精通していることが説明されたり、その他の和歌も急ぎ足で・・・
すべては理解できなかったので、かどやを再訪して襖の前で改めて和歌を読み、紐解いてみたい。
今回紹介された襖の和歌は11首で、次の通り。
出る日のひかりをみてもしられけり
くもりなき代の朝まつりごと
わか水にもちひかゞみに皆ひとの
ちよの影みる春はきにけり
うめの花ほほえむ春になりにけり
柳のまゆもいまひらくらん
わたつみの海士も子の日にあふ時は
うみ松ひきていそなつむなり
うめつほの梅さく春の朝きよめ
伴のみやつこ袖かをるらん
さくら咲こかげに人のねふるかな
ゆめのたましひ蝶ちなるらん
水にすむ蛙もいまはこえたてよ
うくひすはとく花になくなり
あまの児はうめの花貝さくら貝
ひろふや春のすさみなるらん
風ぬるく日もあたゝかになりにけり
はなの盛もほとなかるべし
いなすゝめ田鶴らにむれてなくこえも
年ある秋はこゝちよけなり
きせ綿にうつせる菊の香りをかゝん
おいのしわをものこひかてらに
その他、掛け軸も紹介された。
メモできたのはこちらか?
きさらぎはさくとちちるのをまちおしむ
うめとさくらのなかのはるにて
橋本佳代さんの講演が終了すると野村史隆さんが最後、次のようにまとめた。
廣野籐右衛門は足代弘訓の精神を同等のレベルで受け継いでいた。だからこそ足代弘訓に信用され、こらだけのモノが集まっている。そして、彼は足代弘訓の人脈ネットワークを直に感じていたのだろう。
また、籐右衛門は真珠養殖の成功で巨万の富を得た御木本幸吉にさえも「鳥羽のNo.1は廣野籐右衛門だ」と言わせるほどの人物だった。御木本幸吉が儲けた金を旧南勢町の隧道や橋に投資したのには少なからずも彼の影響があったと思われる。
以上で閉会となった。
こちらが襖の一部で
掛け軸・・・
会場を後にして
二階へ向かうとそこには、多数の短冊が残されていた。
『鳥羽大庄屋かどや』 何度でも訪れたくなる場所だ。
講演内容はうまく説明し切れなかったので講師の皆さんには申し訳ない思いだが、とにかくこちらを訪れて本物を目にして感じていただければ・・・
歴史的なことはあまり分かりませんが
昨年廣野家住宅・かどやさんを訪問して立派なステンドグラス
やら中庭、数々の古文書に感心したことを覚えています。
また、県の指定銀行の百五銀行の支店もそこで営業していたことに
感心しました。
少し前まで大庄屋かどやさんの前まで海がきていたことにもビックリしました。
それと、私の実家も屋号が「かどや」だということを説明員の方に
言ったら、びっくりしていたことを覚えています。
祖母が角屋・二軒茶屋餅の娘で、分家して商家を起こして
いまもかどやの屋号で伊勢で商いを続けています。
たかっちさん、いつもありがとうございます。
鳥羽大庄屋かどやさんは、発見や驚きが多くワクワクするのに落ち着ける不思議な場所ですね。以前訪れた時には「本を読みながらゆっくりと過ごすのもいいですよ!」と言っていただきました。なかなかゆっくりとできていないので、いつかはまったりと過ごさせていただこうと思っています。
また、お祖母様は角屋・二軒茶屋餅の娘さんだったとは・・・。私は仕事の昼休みに時々勢田川沿いをウォーキングし、対岸の二軒茶屋餅を眺めています。
桜貝ひろう二見で始まる足代弘訓の和歌を教えて下さい。宜しくお願いします。
永松布雄さん
コメントありがとうございます。
私も知らなかったので調べました。
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/872807
足代弘訓翁家集の コマ番号24 にて確認できます。
櫻貝ひろふふた見のうら人は袖にもなみのはなやさくらん
でした。