2016年06月12日(日) 「さあ、伊勢市が重い腰を上げる時が来た!」、旧御師 丸岡宗大夫邸(伊勢市宮町)の特別一般公開 (車、徒歩)
ブラタモリ伊勢の二回目が放映された翌日、伊勢市宮町にある旧御師 丸岡宗大夫邸では特別一般公開が実施された。なかなか機会に恵まれず訪れることができなかった本邸をやっと訪れることができた。さらに、旧御師 丸岡宗大夫邸の重要性を肌で感じ、維持もままならない現状に苛立ちさえ覚えた。
伊勢の発展に大いにかかわった御師の活動の一端を垣間見させてくれた旧御師邸。現存するのは丸岡宗大夫邸のみだ。当日いただいたパンフレットによると、
2010年 丸岡邸保存再生を進める会 発足
2012年 NPO法人旧御師丸岡宗大夫邸保存再生会議 発足
2013年 「公益信託 大成建設自然・歴史環境基金」助成事業
2015年 丸岡邸主屋、長屋門、築地塀が国の登録有形文化財 登録
丸岡宗大夫邸の行く末を案じた人々が集まり清掃、片付けに取り組みなんとか一般公開にこぎつけた。その翌々年にはNPO法人を発足させ、雨漏りの修繕な ど景観維持と環境改善のため月一回二時間程度の活動で修理、清掃、樹木の剪定、草刈りなどに汗を流し、再生保存への理解を得るように努力している。さらに次の活動にも取り組んできた。
- 古文書を整理する古文書講座
- 江戸時代の料理を再現し試食する会
- 神札作りの体験
- お伊勢参りルート追体験バスツアー
- 山田まち歩き
- 社会課授業、外国人留学生の実地研修
全てボランティアによる草の根活動である。雨漏り等で傷みが激しい箇所もあり再生保存には資金も必要となり市民レベルの活動ではまかない切れない状況にあるそうだ。
このように伊勢市の片隅でほそぼそと守られ知る人も少なかった旧御師邸が、先日のブラタモリ伊勢で取り上げられたことにより全国デビューを果たした。
伊勢の御師はとてつもない存在。極端なことを言えば御師の存在が無ければ今の伊勢神宮の賑いもなかったかも知れない。それほど重要な存在なのだ。私幣禁断の時代に日本全国の人々の祈りや願いを神宮の神に届けることに尽力した。公家や大名など有力者だけでなく町民や農民にまでお伊勢参りの道を開いた。神宮の神札や伊勢暦、お土産を手にして全国を巡り、お伊勢参りの意識を高めるとともに参宮に伊勢を訪れた人々を御師邸でもてなし、宿泊や飲食だけでなく名所案内や神楽奉納も提供した。このように御師は信仰と観光に貢献したのだった。しかし、それだけではなく自治組織の主要メンバーとして行政運営にも参加し、さらには経済的には日本最古の紙幣となる山田羽書を流通させた。
このように伊勢の御師は信仰、観光、行政、経済と多岐に渡りこの地の発展に貢献していた。その御師の活動の一端を体感できる御師邸が、その本物が残されているのである。しかもそれは唯一、丸岡宗大夫邸のみ。これは伊勢市の多大なる財産であることは間違いない。つまり伊勢市(山田)の生き証人である御師邸の再生保存は避けては通れない道だ。しかもその道は今危うい状態にあり、行く先が不透明な状態にある。
今回、旧御師 丸岡宗大夫邸の再生保存の重要性と必要性について言及したので、さらにもうひとつ。
それは伊勢市郷土資料館だ。2011年3月31日に閉館となった後、平日しか開いていない小俣総合支所での展示のみで見学者を拒むかのような子供だましの展示が続いている。私は行きたくても平日には行けないので未だに行ったことがない。人に魅せるための展示ではなく、ただのポーズに過ぎない。(残念)どうも今までの不満が爆発しそうだ。
【参考】
伊勢市郷土資料館が閉館となった時、
伊勢市郷土資料館(伊勢市のホームページ) には
平成23年3月31日(木)で閉館しました
長らくのご愛顧ありがとうございました。
注)郷土資料館の閉館は、建物の耐震不足と老朽化によるものです。保管している資料の一部は、今後、小俣総合支所1階に設ける「郷土資料室」で展示し、将来的には市の空き施設を利用して郷土資料館を再開する予定です。
と明言されていた。(今はそのページを見ることはできないが、証拠隠滅?) また、国史跡旧豊宮崎文庫跡でもある郷土資料館の跡地は年に数日開放されるだけで有効に利用されていない。
【参考】
- 伊勢市立郷土資料館 2010年07月04日
- 【閉館】伊勢市立郷土資料館 2011年05月22日
- 国史跡旧豊宮崎文庫とオヤネザクラの一般公開 2016年04月02日
このままではかつて伊勢市立郷土資料館に展示、管理されていた伊勢市の文化的財産の多くは日の目を見ること無く、闇に放り去られ朽ちてしまうことだろう。そんなことは許されない。
ブラタモリのおかげで機が熟したようだ。
さあ、伊勢市が重い腰を上げる時が来た。
こんな思いを感じなながら、旧御師 丸岡宗大夫邸を体感していた。
前振りが長くなってしまったが、重要なことなので久しぶりに力が入ってしまった。
ここから、【旧御師 丸岡宗大夫邸(伊勢市宮町)の特別一般公開】
2016年06月12日 11時〜16時、旧御師 丸岡宗大夫邸(伊勢市宮町)では特別一般公開が実施された。
烏帽子世古を南側から歩くと国の登録有形文化財である築地塀、
さらには長屋門が迎えてくれる。開門している姿を初めて見た。
何とも感動的な光景で、門の中へ進むと伊勢郷土会の阿形さんが来館者に説明されていたので、私も・・・
受付で記帳してパンフレットをいただいた。知人が作っていて今回の公開前に重版出来したとのことだった。そんなパンフレットだったのでスキャニングははばかられた。平面図の一部だけを紹介させていただく。(ご希望の方は次回訪れた際に手にしてください。)
こちらが現存している建物の平面図(ただし左側、築地塀前の客室は復元予定となっている)だ。
先ほど阿形さんが説明されていた場所が前庭でこちらが玄関。
こちらは長屋門の扉に隣接する部屋で、その窓から眺めた内玄関の光景だ。
こちらは扉脇の6畳間、ふた間でここには
裃とその下には「登録有形文化財」の登録板。
【参考】
次のデータベースで名前に「丸岡家」と入力して検索すると2件がヒットする。
こちらは宿泊者に出された本膳料理用の本膳、二の膳、三の膳?。
その脇に添えられていたのは、大々御神楽を上げた客向けの献立の記録。記録が残されているのは大々お神楽を上げた上客のみだったそうだ。
これは記念の額?
長屋門の部屋を後にすると内玄関へ向かい主屋へ入った。
内玄関を入った正面をパチリ。
左手には最初に見かけた玄関の衝立、
そして、何とその上方には薙刀が掛けられていた。
内玄関へ戻り、右手方向を望むとそこは台所だ。
その先には
テレビでも見かけたモノが並べられていた。
こちらは教えていただかないと分からないが剣祓も角祓もとても珍しい神札だそうだ。
多数の古文書を見ても外宮の場合、「大神宮」とだけ記されるものばかりでその頭に「豊受」と付くものはほとんど無いとのこと。
こちらは御師がお土産として持って行った「二見浦名産 青海苔」と「御楊枝箸」。楊枝箸とは持ち運びが手軽な「楊枝のように小さな箸」だろうか?
そしてこちらは御師が檀家の人々を迎えるために目印とした大きな看板。その前には四方向から調理できる大きなまな板。さらに看板の左側にも四角い板が立て掛けられていた。これは最近発見されたもので・・・丸岡さんから詳細を伺っていたらケーブルTVの撮影用カメラが・・・、聞いた内容を忘れてしまった。(あぁ、写真も撮り忘れた。)
さらにその左側には三枚の大きな看板が立て掛けられていた。実はこれらは御師とは関係が無いもののようで、側の二枚の看板は丸岡家の親戚が営んだ商売の看板、さらに左側は明治4年(1872年)7月に師職制度が廃止されてから丸岡家が東京の医師の出張所として場所を提供したことを示す看板だそうだ。師職を追われた旧御師は生きるために大変だったのだろう。
これらの看板の向かいにあるのが井戸。その井戸の上には
このようなモノが置かれていた。これも丸岡さんに説明していただかなければ気づかなかったが、釣瓶を井戸の底に落としてしまった時に引き上げる道具だった。
また、照明について確認すると当時からこのような天窓が設置されていたそうだ。
内玄関から板張りの廊下を先へ進むとこちらに突き当たる。
その左側には天井が大きく湾曲した客室がある。ここは雨漏りの影響で床まで抜けてしまったそうだ。ただ、建具を修理している方に確認したところこちらの建物の躯体は頑丈でまだ大丈夫とのことだ。
この部屋の窓側をパチリ。
その後、最奥にある客室へ移動すると
短冊が張られた衝立や
引き戸が印象的だった。
さらにこの部屋の床の間はかなり劣化がひどくなっていた。
帳場では建具の修理作業中だったので、その入口付近でパチリ。
内玄関へもどる途中で、例の看板をパチリ。
長屋門の部屋へ戻るとブラタモリで活躍された案内人の千枝大志さんが熱弁をふるっていた。
献立が増えていることを確認すると再訪を約して旧御師 丸岡宗大夫邸を後にした。
繰り返すが、ブラタモリのおかげで機が熟したようだ。
さあ、伊勢市が重い腰を上げる時が来た。