2017年04月09日(日) 古文書の会-201704(河邊七種神社社務所にて) (徒歩)
本日の午後からの重要な活動は河邊七種神社社務所での古文書整理。
社務所へ入るとすでに多数の参加者が集まっていた。そして、講師である千枝さんと会の代表である東出さんがある話題で盛り上がっていた。そして、皆が囲むテーブルの上には数冊の瑞垣。しかもそれらの全ては表紙が同じだった。
なぜにそんなに盛り上がっていたのか?
その始まりは私が参加できなかった昨日の古文書勉強会にあった。その勉強会で教材となったのはこちらの河崎南町絵図面だった。
そして、その一部には「籐七」なる名とその敷地の前には単純に「世古」と記される小道が続いていた。今回、盛り上がりっていた話題の中心は「籐七」と「世古」だったのだ。
東出代表がこちらの神宮広報誌 瑞垣235、平成28年秋季号を読んでいたところ
皇學館大学文学部非常勤講師である谷戸佑紀さんが書かれた「久保倉弘政の生涯」なる記事を目にした。
ここでは江戸時代後期に没したとされる久保倉弘政なる人物が書き遺した一冊の自叙伝「久保倉弘政生涯の道しるべ」を紹介していた。ちなみにこの本は神宮文庫に所蔵されているそうだ。
この記事を読み進めた東出さんは、なんと(P.56の)一節に惹き寄せられたのだった。
それは全く別の場所に存在していた二つの史料を結びつける重要なキーワードだった。
河崎南町御茶屋の世古に住む籐七という人物に奉公先を探してもらい、
- 「久保倉弘政生涯の道しるべ」では「河崎南町」「御茶屋」「世古」「藤七」
- 「河崎南町絵図面」では「藤七」「世古」
このように神宮文庫と河邊七種神社社務所に別々に保管されていた史料でそれぞれの記述が同じ場所を示していることが特定できると絵図面では「世古」としか記されていいなかった小道の名が明らかとなりそれは「御茶屋世古」であることが分かった。
つまり、まったく接点がなかった史料の接点を見つけ、絵地図には記されていなかった世古の名称が明らかになった瞬間、東出さんはさぞかし驚き、感動したことだろう。これが歴史を学ぶ醍醐味なのだろう。
実に面白い、ワクワクする。
この後、古文書の整理は粛々と進められた。