2016年04月02日(土) 神田下種祭(神宮神田) (車、徒歩)
2010年にお伊勢さん125社まいりを始めると神宮の各種の祭祀にも興味を持つようになった。多数の祭祀を拝観する機会を得たが、神田下種祭は拝観できないでいた。
今年の神田下種祭は土曜日、心待ちにしていた日がやって来た。
神宮の説明によると、
神田下種祭は、神嘗祭をはじめ諸祭典にお供えする御料米の忌種を神田に蒔くお祭り
である。さらに、神宮教養叢書 第七集「神宮祭祀概要」神宮司廳のP.164によると
神田に種子を下すに就いての祭儀である。四月の下旬、忌鍬(ゆくは)山と、神田の祭場に於て行はる。農作の第一義は、土地を耕し始める勤労工作にあるはいふまでもない。此に於て古人は、その勤労の事始の象徴を、耕作具調整に需め、神祇を祭つて農耕の事始を祝ひだのである。神宮神田のこの祭は、はやく大神宮式に規定されて、凡そ神田を営(つく)る すき・くわ の柄を採るには、毎年二月に、先づ山口及び木本を祭つて、然る後これを採るとあるやうに、金属製の すき・くわ を使用する時代になつても、これが柄を嵌(は)めることは、農夫達各自の労作であり、而してその労作を祝福するために、神祭をしてその材を神から戴いたのであつた。即ちこの祭の忌鍬山の儀がそれであつて、先づその山に入る方つて、山口の神を祭り、更に木本の神を祭つて神材を拝受して忌鍬を調整するのである。(材料は延暦の昔は櫟の木であつたが、今日は、樫(あかめかし)の木を使ふことゝなつて居る)。
かくして神の力と人の力との合作になった忌鍬と共に、忌種を神田の祭場に持ち下つて、更に御田の神を祭つて、忌鍬を以て苗代を作り、忌種を下ろすのである。これが神田祭場の儀である。この忌鍬山の頂きから、奉仕の神官達が山蔓を烏帽子に鬘にして、忌鍬と忌種とを捧持して持ち下るその姿は、いかにも古風をしのばせるものがあつて、かの斎庭の稲穂を捧持して、この国土に天降(あも)りました祖神達のそのむかしを、さながらに髣髴せしめるものではなからうか。神宮の特殊神事としては、まさに床しきものゝ一つである。またこの儀の種蒔に奉仕する作長、作丁達とともに、神官の唱和する「天鍬やまさきのかづら笠にきて御田うちまつる春の宮人」の古歌の調にも、やがて迎える秋の大祭の奉仕を、楽しみいそしむ宮人達の情趣を掬すべきものと思ふ。
とある。
また、環境化学者である谷山一郎さんのホームページには神田下種祭についての詳細な解説もある。
【参考】
午前9時から開始予定だったので30分前には神宮神田に到着した。(祭典の開始時刻は予定の前後に振れることがあるが、神田下種祭は大宮司も参列するから定刻が守られるだろう。)
神宮神田の入口を通り過ぎると神田下種祭の準備が進められる状況を確認しながら先へ進んだ。
事務所、耕作人休憩所の前には多数の車、
御稲小屋などでも準備が進められていた。
さらにその左側にはテントが張られその周囲には青白幕が巻かれていた。(このテントの役割は後ほど分かった。)
さらに左手にある木の下には辛櫃が
神宮神田の中央付近、道路に面した黒木鳥居の前に立つと
いつもは閉ざされている入口が開放されていた。
横板が外されたその入口を進むと祭場前へ参入した。
通常、この入口からの立ち入りを拒んでいる横板は黒木鳥居の近くに横たえて並べられていた。
しばらく待機していると動きが・・・
参列者および奉仕者の整列が始まった。今回はモノクロで撮影しようと心していたのだけれど、モノクロでは作長の衣装(黄色)が目立たないため、時々カラー写真が登場してしまった。潔くない私は Color ControlのSDモードとMCモードを行ったり来たりしてしまった。
我慢できずに、カラーでも
こちらは修祓所に準備された三合の辛櫃と案に乗せられた修祓の大麻、御塩。
ほどなく、大宮司を先頭に参列者の参進が開始された。
神職の後に続くのは地元、楠部町の方々だろうか。(神宮神田へ向かう途中で楠部町公民館を通り過ぎる際、正装に身を包んだ方々を見かけた。)
その後、しばしの間を置き報鼓が鳴らされると神田下種祭に奉仕する作長、作丁および神職の参進が開始された。
こちらは、神田祭場にたどり着いた大宮司を先頭とする参進の列。
テントの下へ次々に吸い込まれた。神職に続き、
地元の参列者。
一方、奉仕者は修祓所にて
歩みを止めて整列すると
辛櫃に納められた神饌と共に
修祓を受けた。
参列者が見守るなか、修祓が執り行われると
神饌を納めた三合の辛櫃が動き始めた。
こちらで、一合の辛櫃が神田祭場へ折れると
残りの二合は忌鍬山(ゆくわやま)へ向かった。
忌鍬山はこちらから森へと入った奥にあるようだが、この場所からはその様子を伺い知ることは全くできない。二合の辛櫃を先頭に多数の神職が続き、
忌鍬山へと吸い込まれるように姿を消した。
一方、神田祭場へと折れた辛櫃はテントの下の参列者に迎えられた。
その後も、忌鍬山への参進はしばらく続いた。
その列が・・・
以前、この森の裏手を歩いたことがあるのだが、その時に見かけた場所か?
【参考】
- 家田地蔵尊 子安地蔵尊(伊勢市楠部町) 2013年01月20日
神田祭場へ運ばれた辛櫃は鯨幕の中へ置かれると神田祭場の儀の準備が進められた。
参進の列が忌鍬山へ入ってから10分弱が経過した頃、ひとりの神職がその入口へ立ち戻ると
その場に座した。
すると笏が二度打たれた。参列者は全員立ち上がると低頭した。忌鍬山の儀にてにて祝詞が奏上されたのだろう。(私もしばし低頭)
しばらくして、再度笏が打たれると着席となり、先の神職は森の中へと姿を消した。
そして20分後、神職が今一度現れると、起立、低頭、着席が繰り返された。二合の辛櫃が運ばれたから山口神と木本神の二回だったのか?
全体で45分程だろうか、忌鍬山の儀を終えた1行が神田へ戻ってきた。
神職らは
神田に対面する位置に着座した。(なお、作長、作丁らはテントの左手に)
続いては、忌鍬山の儀を終えた忌鍬が神田前に配置された案へ運ばれ、
さらには、忌種も運ばれた。
続いては献饌。
献饌を終えると祝詞奏上。
祝詞奏上を終えると
作長や作丁が待機するなか
撤饌となった。
続いては作長が神田の前へ進むと
神職より忌鍬が手渡された。
忌鍬を手にした作長は鯨幕へ戻り、それを右に巻いて神田の中央へ向かうと中央で立ち止まり忌鍬を三度振り下ろした。「左」、「右」、「中央」。
次には、右へ移動すると同様の所作を繰り返し、
さらには左側へ移動しても同様の所作を繰り返した。
作長は忌鍬を捧持して
来た道を戻ると
鯨幕のところで待つ神職に忌鍬を手渡した。
忌鍬を返した作長は次に忌種を受け取ると
忌鍬と同様の経路で神田の中央へと移動した。
作長が手にした忌種が作丁に渡されると
二名の作丁が左右に分かれた忌種を撒き始めた。(右側)
(左側)
中央から左右へ
左右から中央へ。それが2回(?)繰り返されただろうか。
下種を終えると作長が神職に報告にあがり、それを受けた神職は神田へ移動した。あの所作は見分だったのだろうか?
その所作を終えると神職は元も位置へ戻った。
その間に神宮衛士に動きがあった。(退下の準備だろう。)
作長が忌種を戻すと神田下種祭は終了となり
まずは、奉仕した神職らが退下となった。
その中に物忌の姿を見つけた。
彼らに続き、
大宮司を先頭とした参列者が退下となった。
長く続くその列の行く先は
先に見た青白幕が巻かれたテントだった。
こちらで直会が執り行われたのだろうか?
その間に忌鍬山からは祭祀に使用された各種の用具が運びだされ、
忌種が巻かれた神田には取材のカメラが張り付いていた。
私は、神宮神田を後にすると
朝熊神社を目指して近鉄朝熊駅方向へ歩き出した。
神宮神田の端へたどり着く頃、振り返るとあのテントから・・・
私は神宮神田を後にした。
【 20160402 の記録 】
- お伊勢さん125社まいり 大土御祖神社、国津御祖神社ほか(モノクローム)
- 神田下種祭(神宮神田)
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- 鹿海神社(伊勢市鹿海町)
- 火防神(ひぶせのかみ)秋葉神社と横たえられたままの道標(伊勢市中村町)
- お伊勢さん125社 宇治山田神社、興玉の森と祭場跡(モノクローム)
- 五十鈴川の桜
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- チューリップも可愛い、宮崎お花畑(御木本道路 岡本一丁目交差点付近)
- 国史跡旧豊宮崎文庫とオヤネザクラの一般公開
- 勾玉池と茜社(伊勢市豊川町)
- 企画展示「神宮の遷座 – 摂社・末社・所管社 -」(せんぐう館)