2017年09月24日(日) 私的に注目度No1、宮子を祀る田上大水御前神社(豊受大神宮 摂社) (徒歩)
小田神社を後にすると車は通り抜けできない細い路地を歩いて勢田川の右岸へ出た。遠望すればこれから訪れる田上大水神社(豊受大神宮 摂社)の社叢を確認できる。
勢田川を離れ朝川の畔を進むと社叢が近づいてきた。淡い緑色の歩道橋で朝川を渡ると
田上大水神社(豊受大神宮 摂社)にたどり着く。石階の手前右手には
田上大水神社と陰刻された社号標が建つ。
一歩々々石階を踏みしめながら進むとその正面に鳥居が建ち、少し不自然な感じが・・・
本記事ではタイトルが「私的に注目度No1、宮子を祀る田上大水御前神社(豊受大神宮 摂社)」である。こちら田上大水神社の玉垣内には現在、私が注目している田上大水御前神社が田上大水神社と直行するように建てられている。
お伊勢さん125社の中には「大間国生神社(大間社と国生社)」や「志等美神社・大河内神社」のように同一の玉垣内に並立しているケースがいくつか見られるが、こちらのように直交(田上大水神社が南面、田上大水御前神社が東面)しているのはこちらのみだ。
このように殿舎の配置的にも珍しいのだが、今回は御祭神に注目したからだった。田上大水神社の御祭神は度会氏四門の祖とされる小事神主で、田上大水御前神社の御祭神は小事神主の女(むすめ)、宮子であるとされている。
私が田上大水御前神社に注目している理由は、先日の「トークバトル パート3」にて榎村さんが紹介された宮子に関する話にあった。
【参考】
その詳細についてはこちらを、
- 第63話 謎の「宮子内親王」は意外な有名人 | 斎宮歴史博物館:斎宮千話一話
さらに注目理由の2つ目は、伊勢古文書同好会でテキストにしている宮川夜話草を読み進めていたところまさにこの記述が現れたからだった。
度会姓四門の祖大神主小事命を祀り田上大水社と称す式内の神社也別に前社とて宮子を祀る是は式外也即ち小事命の女にして欽明天皇の御宇斎王に代り宮子内親王と称せし
【参考】
- 2017年08月勉強会(伊勢古文書同好会) 2017年08月20日
この二つの理由に背中を押されるうように訪れてしまった。
それにしても珍しい配置となっている。
お参りを終えてから田上大水御前神社にて佇んでいるとある思いが・・・
私は「もしも」論は好まないのだが、以前からこんな「もしも」論が頭の隅に居座っている。それは「もしも、御師がいなかったら、伊勢神宮の参拝者数はこんなに多くないのでは・・・」。その考えを大きく後押ししてくれたのは榎村さんのお話だった。御師の全国への影響力を考えれば、彼らの尽力のおかげで日本全国どこからでも「お伊勢さんここにあり」と認知され、多くの人が我も我もとお参りしたのだと・・・。
つまり、今の伊勢(神宮)があるのは御師のおかげだといっても過言ではないだろう。ただし御師だけではあれだけ多くの参拝者を迎えることはできなかった。御師の活動をささえた人々の営みがあったから今の伊勢はある。つまり、今となってはほどんど注目されていない御師の活動や彼らを支えた人々について改めて注目する必要があるだろう。
こうのように考えると、唯一となってしまった旧御師 丸岡宗大夫邸の保存をはじめ、今の伊勢を作り出した過去を大切に保存し、今後に活かすことが残された伊勢市、伊勢市民としての使命なのではないだろうか。そのためにも郷土資料館は本来の姿を取り戻し、活用を前提とした管理が必要となる。
こんなことを考えながら田上大水神社を後にすると
神社の脇に消防車が二台も停まっていた。何事かと思って近づいたら、地域の防災訓練が執り行われていた。
こちらを後にすると山末神社へと向かった。